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函館市文学館の小林です。 当館2階では、石川啄木に関する自筆の書簡や短歌、詩、小説、評論等の原稿、写真類、歌碑拓本などを数多くの展示をしています。館内のパネルや展示品を通して、函館に始まる北海道漂泊の旅はもとより、啄木の生い立ち、学生時代、新婚生活、代用教員の頃の様子、そして東京時代までと啄木の生涯をわかりやすくご覧いただくことができます。 館内2階の様子 明治37年、岩手の渋民村宝徳寺住職の父一禎が宗費を滞納し罷免され、一家は盛岡へ移ります。明治39年になると盛岡での生活は困窮を極め、啄木は一家の生活を支えるため、渋民尋常高等小学校の代用教員の職に就きました。しかし、校長排斥のためのストライキ事件の責を負って免職となります。一家離散となって故郷を追われた啄木は、明治40年5月5日、新天地北海道に新たな仕事を求め来函します。啄木21歳の時でした。 啄木が函館に来るきっかけになったのは、苜蓿社が文芸雑誌『紅苜蓿』を創刊するにあたり、啄木に原稿を依頼したことによります。啄木は第1、第2冊に詩を投稿し、来函後第6、第7冊からは主筆となり編集に腕を奮います。当時、啄木は詩集『あこがれ』を出版し、天才少年詩人として評価が高かったので「鶏小屋に孔雀が舞い込んだようなもの」と大歓迎されました。
『紅苜蓿』復刻版 当時の北海道で唯一の文芸雑誌だった 『紅苜蓿』を創刊した苜蓿社は、松岡政之助(蕗堂)の発案により明治39年暮に発足したもので、同人には主筆の大島経男(流人)のほか、吉野章三(白村)、岩崎正(白鯨)、並木武雄(翡翠)、宮崎大四郎(郁雨)、向井永太郎(夷希微)、西村彦次郎、丸谷喜一らがいました。
苜蓿社の同人たち(前列左:啄木、右:西村彦次郎、円内右より、宮崎郁雨、大島流人、 並木翡翠、吉野白村、岩崎白鯨) 同人たちは、最初は苜蓿社のあった松岡蕗堂の部屋に、後には啄木の家に毎日のように集まり、文学を談じ、短歌を詠み、恋を語り合いました。啄木の中断していた作歌意欲が再燃し函館での暮らしは、26年の生涯で最も楽しく、充実していた期間だったといわれています。同人の中でも、特に宮崎郁雨は、最初から啄木の才能を見抜き、中央文壇で活躍させようと援助し続けました。後に啄木の妻・節子の妹と結婚し義理の弟となり、啄木の死後もその顕彰に尽力した人物です。
松岡蕗堂居宅跡(苜蓿社の所在地 現在の青柳町10-2付近) 函館での啄木は、商業会議所の臨時雇い、弥生尋常小学校代用教員、函館日日新聞社の遊軍記者を経験し、離散していた家族も呼び寄せ安定した生活を送りました。しかし、8月25日の夜に発生した大火によって弥生尋常小学校、函館日日新聞社も焼け職を失うこととなりました。また、『紅苜蓿』第8冊の原稿も焼失してしまいました。その後啄木は9月13日には就職のため札幌に向かい函館を離れました。こうしてわずか132日間の啄木の函館生活は終わりを迎え、札幌・小樽・釧路との北海道漂泊の旅が始まりました。 函館市文学館では4月11日(木)から10月8日(火)まで令和6年度上半期石川啄木直筆資料展 特別展「詩人・石川啄木」を開催します。処女詩集『あこがれ』により広く注目されるようになった啄木は26歳で夭逝するまでに、『紅苜蓿』に掲載の作品など、364篇あまりの詩を残したといわれています。今回の展示では、啄木の詩の直筆資料や、詩が掲載されている雑誌の復刻版等をご紹介します。 石川啄木 参考文献/岩城徳之監修『石川啄木入門』(思文閣出版、1992年) 写真 /『石川啄木生誕120年記念図録』(函館市文学館、2006年)、 函館市文学館所蔵写真より
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by dounan-museum
| 2024-03-19 10:32
| コラムリレー
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私たちの多くは、1年の中でイベントごとに決まって食べる料理があります。代表的なもので言えば、お正月にはお雑煮を、節分には恵方巻きといったものが挙げられるでしょう。全国的に見られる風習の他、各地域特有の行事やその行事に合わせて食べられる料理があります。 江差町では、お正月には鯨汁を食べるご家庭があったり、地域特有の季節ごとに決まった料理を食べる風習が今でも色濃く残っています。そこで今回は江差の夏のイベントとその際に振る舞われる料理についてご紹介します。 8月9日10日11日は、1年の中で最も江差の街中が賑わいます。 豊作・豊漁・無病息災を祈る姥神大神宮渡御祭が行われるのです。江差の人たちは、毎年このお祭りを待ち焦がれ、江差から離れて暮らしている人もこのお祭りのために江差に帰ってきます。 お祭りは、神輿と鳳輦(ほうれん)の後にヤマと言われる各町の山車が2日間かけて江差の町を練り歩き、沿道の友人や知り合いのお宅に「結構なお祭りです。」と挨拶をして回ります。各家庭ではご祝儀やお酒、ご馳走を用意して行列が来るのをまだかまだかと待つのです。 今回のコラムリレーでは、お祭りで振舞われる各ご家庭の「煮しめ」を紹介していきます。 煮しめは、野菜や乾物を煮汁がなくなるまでしっかり“煮しめる”調理法からそのように言われ、お正月やお祝い事の他、人が集まる時に作られる縁起の良い料理とされています。 毎年、江差のお祭りの時期に作られる煮しめは、どんな食材が使われているのでしょうか。 ・S家 お蕎麦屋さんを営むSさんのお宅で作られる煮しめには、人参・たけのこ・ふき・わらび・揚げ蒲鉾・がんも・豆腐・こんにゃく・ちくわ などの食材が使われています。 見かけによらず控えめな味付けで、出汁の風味が口の中いっぱい広がる印象でした。聞いてみると、2種類の出汁を取っている点がこだわりとのこと。お蕎麦屋さんらしいこだわりが感じられました。 S家の煮しめ ・T家 たけのこ・ふき・わらび・揚げ蒲鉾・がんも・豆腐・こんにゃく・ちくわなどの食材が入るTさんのお宅では、毎年おばあちゃんが煮しめを作ります。町内で旅館を営むおばあちゃんは、普段からお客さんに朝ごはんを用意しています。 ・H家 同じく町内で旅館を営むHさんのお宅では、女将さんが料理を振舞います。たけのこ・ふき・わらび・揚げ蒲鉾・がんも・豆腐・こんにゃく・ちくわが綺麗に並べられた煮しめが用意されていました。 H家の煮しめ 民謡の師匠であるSさんのお宅には、お弟子さんなど多くの人が挨拶にやってきます。その人々は、師匠の奥さんがつくる煮しめや赤飯に出迎えられます。 煮しめには、たけのこ・ふき・わらび・揚げ蒲鉾・豆腐・こんにゃく・昆布・椎茸・卵といったたくさんの具材が使われていました。 S家の煮しめ ・S家 Sさんのお宅の煮しめには、人参・ふき・わらび・揚げ蒲鉾・豆腐・がんも・こんにゃく・椎茸・ちくわなどが入っており、煮しめの他にも料理を作るのが好きだというご次男が煮しめとともに様々な創作料理を用意していました。 S家の煮しめ ここまで、いくつかのお宅で振舞われた煮しめを紹介してきました。各家庭で作られる煮しめには、使われる材料や味付けが異なり、作り方のこだわりがあります。同じ料理でも家庭の数だけ種類があるということがわかりました。 お祭りで用意される煮しめや赤飯、そうめん、刺身、ツブなどのご馳走は母さんが何日も前から献立を考え、仕込み、用意されます。それはとても労力のいる大変な仕事ですが、家に訪れる人をしっかりおもてなしできるよう、年に1度のお祭りを盛大に盛り上げようと、母さんたちも気合が入るのです。 今回お邪魔できなかったお宅でもお邪魔したお宅でも、よく聞こえたのは、「前は全部手作りして用意していた」「最近はオードブルに頼り切っちゃってね」という声でした。 手軽にテーブルの見栄えをよくできるオードブルなどに年々頼りつつある傾向にあるようですが、そんな中でも煮しめや赤飯など自分で作れるものは手作りしている印象を受けました。 皆さんに、なぜお祭りに煮しめを作るのか聞いてみたところ、「そういうもんだから。ばあちゃんも母さんも作ってたから、自然と自分も作ってる。」という答えが返ってきました。 江差のお祭りでご馳走を用意する母さん方は、お祭りの影の立役者であり、”お祭りには煮しめ”というこれまで受け継がれてきた食文化を継承し続けているのです。 #
by dounan-museum
| 2024-03-14 10:59
| コラムリレー
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森町教育委員会の佐孝です。
今回は、森町が所蔵する『村岡文庫』の中から「森村 尾白内村 境論一件(慶応二年)」をご紹介します。この資料は明治から大正にかけて森で医師を務めた村岡格氏の親族から寄贈された3,000点を超える資料群の中に含まれていたものです。 表紙には「茅部郡尾白内村 カ一金丸」の印が押されています。金丸家は尾白内村(現森町尾白内町)の旧家で、当主は明治期に村総代を務めるなど尾白内の村政に深くかかわっていました。幕末期に村役人を務めていたかは分かりませんが、この一件の論所となった中ノ川の海岸一帯に漁場を持っていたことからも、当事者であったことは間違いないでしょう。おそらく尾白内村の役場で写されたものが綴られて、金丸家に保管されていたのでしょうが、何故に村岡格氏の手に渡ったのかは不明です。 小本51丁の中に森・尾白内双方の書付の写しが14件綴られていて、両村の当時の様子や近世以降森の開村から現在に至るまでの変遷の一端を窺い知ることができる資料です。
さて、本題の争論についてです。 森と尾白内は元来鷲ノ木村(現森町鷲ノ木町)を本村とする隣接した枝郷でしたが、安政五年(1858)に六ヵ場所が村並から村へと昇格した際に、鷲ノ木村からの独立を願い出て、双方一村立が認められました。その8年後、慶応二年(1866)九月に森村が尾白内村を相手取って箱館奉行所へ訴え出たのです。訴訟の内容は、村境の認識に双方齟齬があるので明確にしてほしいというものです。 両村の主張は…
森村 :村境は中ノ川字アシワリ沢であり、旧来から森の持ち分として村継・道橋の普請等を行ってきた。以前はともに枝郷であったので特に境杭を立てるなどはせず、ちょっとした越境行為には目を瞑ってきたが、我慢も限界を超えた。以前鷲ノ木の枝郷であった際に各持ち場の絵図面を作成して連印の上役所へ提出している。 尾白内村 :村境はアシワリ沢ではなく、もっと森村寄りの中ノ川左岸である。旧来からここを持ち分として村継・上納を行ってきた。絵図面への連印とあるが、一村立する前は鷲ノ木村の役所に印は置いたままにしていたので、誰かが勝手に捺印したのだろう。そんなことは村民誰一人として知らない。
このような主張を互いに曲げようとしません。この悶着の火種は数年前からくすぶっていたようで、一村立から三年後の万延二年(1861)には役人を交えて話し合いが行われたことが記されています。両村が一人立ちしていく過程で、縄張り意識の高まりから争いごとが起こったというのは必然であったのでしょう。 尾白内村の主張の中に当時の森と尾白内の有様を記した箇所があります。(以下赤線部分) 「森村之義者蝦夷地通行人之助成ニ而も取続相成候得共、当村之義者漁業一派之渡世ニ而、今日相凌外ニ業体更ニ無御座候」とあり、森村は漁業以外にも往来する通行人を取り扱うことで収入が見込めるが、尾白内村は漁業一筋で生きていく他に道は無いと主張しています。幕末期の箱館開港、和人地の拡大といった背景から往来が増加し、森村は地理的な好条件から交通の要衝として栄える一方、尾白内村は専ら漁業一筋であったことから、双方の賑わいに徐々に差が生じてきたことが窺えます。 また、森村の主張には「不漁難渋困窮之百姓とも、他借を以漸々相続罷在候処、近年都而不漁相成折柄」とあって、近年不漁続きで漁民たちは借金をしてなんとか凌いでいると難渋する様子を訴えています。まさに村境の取り決めは、村の浮沈を左右する重大事であったのです。 このように双方が困窮している状況を訴えて一歩も譲らない争論は箱館奉行所を介して延々と繰り広げられます。翌慶応三年(1867)には、役人の実地見分が行われ、追って沙汰が下されるまでは今まで通りということになったようですが、最終的な奉行所の裁決については残念ながらこの資料には残されていません。 時代は下って、明治六年(1873)以降のものと思われる森村畧図(函館市中央図書館所蔵『函館近傍外国人遊歩期程分界取調略図』より)には両村の境が記されています。 「従川岸至四十八間五尺 森村尾白内村境」とあり、境杭らしきものが描かれています(境杭から向かって右側が森村、左側が尾白内村)。尾白内村が境界と主張する中ノ川左岸は認められず、四十八間五尺尾白内村寄りの場所に境杭が建てられていますので、森村の主張がある程度認められたのかもしれません。両村の里数について記載されている資料を見るに(詳細は割愛しますが)、森村が境界と主張するアシワリ沢という場所は畧図にある杭よりも、尾白内村寄りにあったと推測されますので、森村に対しても一定の譲歩を認めさせるような沙汰が下されたのかもしれません。 ところがこの争論はこれで収まりませんでした。北海道立文書館に所蔵されている開拓使文書に3件の書付が残されていて、まだ解読が済んでおらず検証が必要ですが、明治四年(1871)に何者かが勝手に境杭を引き抜いたことから再燃し、同じような主張が繰り返されたあげく、開拓使から杭を両村立会のもとで立て直すよう指示が下されています。一連の争論がどのような決着を見たのか、残念ながらそれを示す資料も今のところ見つかっておりません。 その後、明治三十五年(1902)に二級町村制が施行され、森村は尾白内村など近隣五カ村を吸収して新生“森村”となりますが、この時点でどこが境界だったのか現時点では明らかにはできません。そして現在の尾白内町の範囲はもっと狭く、上図でいえば左端にわずかに見切れている尾白内川が境界になりますが、これは昭和十四年の改正で北海道庁の告示を受けて定められたもので、争論の結果として設けられたものではないと思われます。 “オラが村”の縄張りをめぐる争論の結果、どのように境界が設けられ、それに対して村民たちはどう対応したのか。そして現在へどのように受け継がれてきたのか。一連の成り行きを探る作業は一筋縄ではいきそうにありませんが、森町の歩みをより明らかにするよう、今後も引き続きこの争論の展開を掘り下げていきたいと考えています。
参考文献: 松前町史編纂室 1980 『松前町史 史料編 第四巻』 青山英幸 1994 「箱館奉行文書について―簿冊についての覚書―」 『北海道立文書館研究紀要 第9号』 北海道立文書館 1871 『開拓使函館支庁 雑書』 森町 1980 『森町史』 #
by dounan-museum
| 2024-03-04 09:16
| コラムリレー
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ピリカ旧石器文化館からお知らせです。 令和4・5年度に実施した発掘調査や測量調査の成果についての報告会を実施いたします! ①航空写真測量によって見つかったチャシ跡状地形の試掘調査結果や、②江戸時代前期の松前藩による砂金採掘跡である美利河2砂金採掘跡をモバイルスキャン技術を利用して実施した測量の成果、また、③国土地理院提供の航空レーザー測量のデータを利用して確認された新発見の砂金採掘跡の踏査結果など、2年分の調査成果について報告いたします。 日 時:2024年3月2日 13:30~15:00 場 所:今金町総合体育館研修室 申 込:不要 参加費:無料 どなたでも参加できますので、ぜひお越し下さい! お待ちしております。
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by dounan-museum
| 2024-02-21 09:54
| ピリカ旧石器文化館
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北海道立函館美術館の田村です。 当館では「生誕120年 前田政雄展 木版画とともに歩んだ50年」を開催中(4月14日まで)。函館出身の版画家・前田政雄(1904―74)は、20歳で上京し、油彩や木版画の技法を学び、1940年前後から大画面の雄大な山岳版画を制作し、日本近代版画史にその名を残しました。没後50年を経た現在、地元・函館でさえその名を知る人は多くありません。 しかし、鮮やかな色彩と大胆な色面により構成された作品は、現代に通ずるデザイン性を有し、再評価されるべきです。 当館では、2006(平成18)年に「前田政雄展 知られざる画業の全貌」を開催しており、本展は18年ぶりに前田の画業を振り返るものです。前田の全体像は前回展の調査で精緻に検証しましたが、今回の調査でもいくつか明らかになったことがありました。本コラムではそのあたりをご紹介します。 1924(大正13)年の上京以降、東京を拠点に活動した前田ですが、毎年のように故郷・北海道へ渡っています。作品制作のみならず、道内の画家仲間と深く交流したことを示す資料が残されていました。北海道美術協会(道展)の創立メンバーのひとり本間紹夫(1902―67)と交した色紙です。1931(昭和6)年、第七回道展審査員として来道した前田は、中島公園にあった本間の別荘・胡蝶園に宿泊しました。そこには出品を終えた道展メンバーが集まり、絵画談義をしたり、余興を楽しんだり、夜な夜な宴が繰り広げられたと言います。祝宴の最中も、画家たちは色紙や帳面を携え、お互いの姿や折々の情景を写し取りました。前田と本間が互いに肖像を描いたものや、宴会芸を披露する前田の姿を情感豊かに描いたものなど、仲睦まじい様子が伝わってきます。東京で活躍する前田でしたが、故郷の画壇とのつながりも大切にしていたことがわかります。 図4:前田政雄《本間氏像 昭和六年十月一日 政雄画》1931(昭和6)年 墨、色紙、個人蔵 図5:本間紹夫《前田氏一時 昆蟲となり 名声を博す》1931(昭和6)年 墨、色紙、個人蔵 * * * * * * * * * * * * * * * * * 前田作品の評価は国内にとどまりません。1945(昭和20)年、終戦を迎えた日本はGHQの統治下に置かれます。軍人の中には、同時代の日本版画に惹かれたものもおり、施設内でも展覧会が開催されました。1948(昭和23)年には本展出品の《黒猫》などが、GHQ管轄のアーニー・パイル劇場3階展示室で展示されたことが銅版画家・関野凖一郎旧蔵資料(現・青森県立美術館蔵)の調査により判明しました。外国人たちにも作品が紹介され、現在アメリカやイギリスなどの美術館にも収蔵され、前田は世界的にも知られる版画家となっています。 * * * * * * * * * * * * * * * * * 版画家の仕事として、忘れられがちなものに、書籍の挿絵や装丁があります。前回展でもいくつか事例は紹介されましたが、その全容をつかむことは困難と言えます。なぜなら、これらの仕事は、調査範囲が膨大で、担当した作者名が記載されないことも多いためです。近年、国立国会図書館で書籍データがデジタル化されました。全文検索が可能となり、前田の名前を入れると多くの項目が見つかります。『山と渓谷』の表紙絵、『主婦と生活』のデザイン性豊かな目次カットなどを担当したことがわかりました。作品制作だけではない多彩な活躍振りが垣間見えるのも本展の見どころと言えるでしょう。 #
by dounan-museum
| 2024-02-18 18:54
| コラムリレー
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