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市立函館博物館の佐藤です。 道南ブロック博物館施設等連絡協議会「アドベントカレンダー」(テーマ:箱館戦争)12日目の原稿です。 今回の箱館戦争には直接関係無い話ですが、個人的な興味として、その当時咲いてた(と思われる?)草について、クイズ形式で問題を出しながら話を進めますので少しの間お付き合いください。 シロツメクサ(クローバー)は、いまでは全国どこでも見られる草ですが、実はヨーロッパ原産の草です。 とくに道ばたや空地などにたくさんはえていて、この草の花で首かざりなどを作って遊んだことのある人も多いことでしょう。当然、五稜郭でも見ることが出来ます。 さて、榎本武揚(1836~1908)はこの草を五稜郭の道ばたなどで見ることができたと思いますか? 予 想 ア.見ようと思えば見ることができた。 イ.見ることはできなかった。 シロツメクサは江戸時代の弘化年間(1844~48)に日本に渡来したものですから、もしかしたら榎本武揚は見ることができたかもしれません。 もしかしたらと言ったのは、『授業・科学をたのしむ 』(平林 浩 1992)によりば、この草はオランダの商人がガラス器具などを運んでくるときに、箱のなかに枯れたものを〈詰め草〉として使っていたため、それを見る可能性はあったかと思います。 現在全国に見られる草は、その〈詰め草〉のタネを好事家がまいて育てたのが始まりだと言われています。 はじめはオランダゲンゲと名がつけられていたのですが、〈詰め草〉からツメクサとなりました。 『図説花と樹の大事典』(植物文化研究会編 1996)によればムラサキツメクサ―ヨーロッパ、アジア原産で明治初期に渡来―はシロツメクサに由来しますが、植物学的には別種です。 この草は牧草として家畜のえさにしたり、緑肥として広く利用されています。 マメ科の植物で、根に根粒バクテリアがつき、空中の窒素を固定してくれます。 レンゲソウ(ゲンゲソウ)とともにシロツメクサは田や畑に種子をまいて育て、それを土にすきこんで肥料にします 。 次に話を進めます。 タンポポを知らない人はいないと思いますが、タンポポにもいくつかの種類があることを知っていますか? 北海道で見られる種類は、エゾタンポポ、セイヨウタンポポ、シロバナタンポポです。 シロバナタンポポは日本在来種で、本州の関東以西、四国、九州に分布しますが、関東以東では北海道だけに分布します。 それも松前町にある龍雲院の境内でしか確認されていない摩訶不思議な草です。 さて、本題です。セイヨウタンポポは、いまでは全国どこでもみられる草ですが、ヨーロッパ原産の草です。とくに道ばたや空地などにたくさん生えていて、この草の花で頭かざりなどを作って遊んだことのある人も多いことでしょう。 また、エゾタンポポは、北海道や東北地方に自生しており、シロバナタンポポ同様、日本在来種です。 しかし、セイヨウタンポポの繁殖力の強さのため、今ではエゾタンポポは徐々に姿を消しつつある草です。 見分け方は、頭花―黄色い部分―の下にある総包―緑の部分―が頭花を包んでいるのがエゾタンポポ、その片が反り返っているのがセイヨウタンポポです(ただ、最近は「どちらともいえない姿のもの」で雑種と思われるモノが見られるようになりました)。 2種のタンポポの見分け方 ところで、土方歳三(1835~1869)も道ばたに咲くこれらのタンポポを五稜郭などで見ることができたと思いますか? 予想 ア.見ようと思えば見ることができた。 イ.見ることはできなかった。 セイヨウタンポポは受粉を必要としないため年中花を咲かせるのに対し、エゾタンポポは受粉が必要なため5~6月の一度しか花を咲かせません。 戊辰戦争の最期の戦いである箱館戦争で没した土方歳三は、五稜郭に入ったのが旧暦の明治元(1868)年10月26日であったため、季節としてはセイヨウタンポポを目にする可能性はありますが、セイヨウタンポポは明治の初め頃に渡来したため、その草を見ることはありませんでした。 ただ、土方が箱館の一本木で没したのが旧暦の明治2(1869)年5月11日で新暦では6月20日であるため、エゾタンポポを目にしていた可能性はあります。 さらに、この草は会津若松・仙台・宮古でも生育してますから、江戸からの北進中でも目にすることができますが、ただ、この草の花が咲く時期に当てはまりませんから、この草の黄色い色は目にすることが無かったでしょう。 この2種のタンポポは、生育環境が異なるにもかかわらず、土方が根城にしていた五稜郭やその周辺に今でも咲いています。 五稜郭はどちらも見ることが出来る貴重な場所と言えます。 エゾタンポポ(キク科) セイヨウタンポポの中に咲くエゾタンポポ さらに付け加えて質問です。 セイヨウタンポポはどのようにして、日本に渡来したでしょう。 予想 ア.シロツメクサのように〈詰め草〉として運ばれてきた。 イ.誰かが食べるために持ってきた。 ウ.明治になると海外から多くの外国人が日本にやってきたので、その身体にタネがついて入ってきた。 エ.その他 セイヨウタンポポは、北海道大学の前身である札幌農学校ができたときに、お雇い外国人が持ってきた草と言われています。 植物学を教えていたアメリカ人教師、D・P・ペンハロー(1854~1910)が野菜としてサラダにするため、本国から苗を持ち込んで植えたもので、現在のセイヨウタンポポは、その草が増えたものと考えられています。 アメリカでは、イタリア系の人がタンポポを好んで食べるそうで、その若い葉は,良く洗って水気をとってマヨネーズをつけて食べるとおいしいのだそうですし、多少の苦みはありますが、気にならないそうです(平成14年10月27日に行われた辻井達一〈2013年1月15日故人〉による講演「英雄ワイナミョイネンは鋸草の小花から軟膏を作らせた―生物多様性国家戦略の中のノコギリソウ」から引用・改変)。 以上、とりとめもなく書いてきました。 本当のところはどうであったか、悪ふざけの域を出ませんが、息抜きがてら大真面目にこんな事を想像を巡らして考えるのも楽しいことではないでしょうか?
by dounan-museum
| 2013-02-22 02:22
| テーマ「幕末維新・箱館戦争」
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