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七飯町歴史館の山田です。 道南ブロック博物館施設等連絡協議会「アドベンドカレンダー」(テーマ:幕末維新・箱館戦争)15日目の原稿をお届けします。 私は、幕末に入植し、七飯町の開拓に尽力してきた八王子千人同心隊について話したいと思います。 八王子千人同心隊について、ご存じない方もいるかと思いますが、大雑把に、屯田兵のような団体的農兵として捉えて頂ければ良いかと思います。安政5~7年にかけて、蝦夷地の開拓と北方警備の名の下に、八王子千人同心の一団が、3回に分けて七飯町に入植します。彼らは、幕府が経営していた七重村御薬園の周辺に居住し農地を得て、開墾や養蚕業に従事していました。また、当時、七重村御薬園を管理していた栗本鋤雲を助け、桑や楮などを植えたり機織や製紙などに従事したりしていたといわれています。 この同心の中の飯田甚兵衛という人物が中心となって開墾した辺りは「飯田村」と呼ばれ、現在も「飯田町」という名で残されています。余談ですが、現在の町名に使用されている「七飯」という表記は、明治12年に隣接する七重村と飯田村が合併して、各々の村から一文字づつとり「七飯村」と改称したという歴史がありますから、町名由来を紐解いていくと、八王子千人同心隊の歴史が垣間見られるわけです。 さて、八王子千人同心隊たちの暮らしは、その後、安泰だった訳ではありません、明治維新の余波は想像以上に大きく、大政奉還後の混迷の最中、七重に在住していた平山金十郎、花輪五郎といった郷士が、旧家の復興をはかろうと、箱館府知事だった清水谷公考を奪うクーデターを画策、裏切りによって未然に防がれてしまったものの、平山金十郎は逃亡、花輪五郎は証拠である連判状を飲み込み証拠を隠滅し他の仲間達を助けるという顛末をむかえ、結局は、この計画に携わったその他大勢がわからないままの解決となりました。 そのため、七重村に在住する同心たちには、主犯格の組織と関わりがあるのではないかという疑惑の目が向けられてしまいます。そのこともあってか、榎本武揚らが鷲ノ木へ上陸し箱館戦争が勃発すると七重在住の同心たちは、これまでの疑惑をはらす為なのか、箱館府在住隊として黒沢伝之丞の指揮下に入り戦争に参加するという決断をしました。もともと幕臣でもある同心たちが、旧幕府軍側と戦う運命を辿ることになったのですから、断腸の思いで戦争に参加した者がいたことは想像にかたくありません。 ■八王子千人同心隊名簿(七飯町歴史館蔵 明治元年8月9日付) ※この名簿には、当時七重村に在住していた同心32名の名前が記されています。当館常設展示室でいつでも見られます。 同心たちの苦難は、さらに続きます・・・。この戦争の混乱の中、ドイツ人R・ガルトネルと榎本武揚らとの間に交わされた「蝦夷地七重村開墾条約書」によって、彼らが苦労を重ねて開墾してきた土地が、ガルトネルの所有地となってしまいます。この条約は後の明治新政府によって早々に解消されたものの、同心達にとっては納得のいかないものだった事には変わりありません。 以上、箱館戦争に巻き込まれた八王子千人同心隊たちの話を簡単に記してみました。 町の学芸員として彼らの歩みを知った時、改めて、歴史書にも名前が列記されないような先人達の決断というものも歴史が紡がれているんだなと感じました。 戦禍に巻き込まれた後も、七飯町の発展に尽力した八王子千人同心隊の働きをみると、博物館施設として、残し伝えなくてはならないものの重みと責任のようなものを感じてしまいます。 少し、ローカルな話題提供で申し訳ありませんでした!
by dounan-museum
| 2013-02-25 00:00
| テーマ「幕末維新・箱館戦争」
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