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事務局長の市立函館博物館の野村祐一です。 昨年11月23日に、函館市中央図書館との共催で開催した郷土の歴史講座「発見されたガラス原板-函館市中央図書館収蔵写真の調査-」では、市立函館博物館と北海道立函館美術館が共同で実施した同図書館に収蔵されている写真資料の調査により発見されたガラス原板について、高精細画像を用いて写っている内容の解説を行いました。 郷土の歴史講座の発表は、HLPプロジェクトのメンバー4名が行いました。 田原 良信(元市立函館博物館長) 大下 智一(北海道立函館美術館主任学芸員) 保科 智治(市立函館博物館学芸員) 野村 祐一(市立函館博物館学芸員) ちなみにHLPプロジェクトとは、Hakodate Library Photographs プロジェクトの略で、博物館は平成24年度に、美術館では平成25年度に、それぞれ古写真についての展覧会を計画していたことから、共同で図書館の写真を調査しようということになり、平成23年秋から平成25年春のおよそ1年半の間、月1~2回程度のペースで図書館に集まって調査を行いました。 この調査の過程で、これまで発表されていなかった明治初めから昭和初期頃にかけての写真のガラス原板が発見されました。そのうちの一部は博物館と美術館の展覧会で展示しました。 郷土の歴史講座では、特に函館市史などの文献と照らし合わせて解説することで、当時の函館の町のようすを紹介しましたが、今回はその中で特に関心を集めた明治25年撮影の函館港のパノラマ写真と、写真に写っている内容について、文献と照らし合わせながら解説したいと思います。 なお、以下で、文字色がオレンジ色の文章は『函館市史・年表編』(平成19年発行)の記述です。 この写真は、函館山から港の全景を撮影した4枚一組のパノラマ写真です。撮影年月日は明治25年(1892)11月6日、撮影者は田本研造です。 このパノラマ写真の左から2番目のガラス原板に「二十五年十一月六日写」という朱書きがあり、撮影者が撮影した年月日を書き込んだものと思われます。 また、このガラス原板と全く同じ画像のプリント写真が図書館所蔵の「田本写真帳」-いわゆる田本アルバム-に収められていました。 田本研造は幕末から明治期に活躍した函館の写真師で、土方歳三の肖像写真を撮影したことで知られる人物です。 田本研造 1831-1912 【函館市中央図書館蔵】 上の写真はパノラマ写真のいちばん左側のカットで、函館港の西側(現在の入舟町・弁天町・弥生町・大町辺りまで)のエリアが写っています。 ○ 旧弁天砲台 画面の左中央に写っているのは、幕末の箱館開港に伴って五稜郭と共に築造された西洋式要塞・弁天岬台場で、箱館戦争の時には旧幕府脱走軍が立て籠もって最後まで抵抗しました。 明治期には弁天砲台と呼ばれ砲兵隊が置かれていましたが、写真をズームにすると・・・、大砲が設置されていないのが見て取れます。 この写真が撮影される5年前に、砲台としての役割を終えていたので、この頃は“旧”弁天砲台と呼ばれていました。 旧弁天砲台はその後、この写真が撮影された4年後の明治29年に港湾改良工事のために取り壊され、周辺は埋め立てられて現在の函館どつく付近になっています。 明治29年(1896)6.25 道庁技師広井勇の設計監督のもと函館港改良工事に着手する(弁天砲台を取り壊し、周囲を区営で4万4547坪埋め立てる。また、函館船渠の敷地1万5800坪は会社で内面を埋め立てる)[函館港改良工事報文] なお、解体された旧砲台の積み石は、函館漁港の船入澗防波堤に転用され、現存しています。 ○ 駒ヶ岳 旧弁天砲台の右上方、横津連峰の山並みの上に写っているのが駒ヶ岳です。 ちなみに、こちらが現在の駒ヶ岳。 撮影地点が少しずれていますが、上の写真よりも剣ヶ峯や馬の背が少し緩やかに見えますね。
駒ヶ岳は、昭和4年(1929)6月17日に大噴火を起こしました。 昭和4年(1929)6.17 駒ヶ岳が爆発し、近郊8町村に総額838万円の大きな被害がでる。翌18日に800人が函館に避難した他、函館病院からの救護隊が森町、鹿部村に急行する[新北海道史年表、函日・昭4.6.17-18] その時の様子は函館市街地からでも見ることができたそうで、噴煙が上空高くまで拡散している写真が残されています。 ○ 灯明船 函館港の中ほどに小船が1艘写っています。 この船、実はこの場所にずっと留まっている船なのです。 函館港入口のこの辺りは水深が浅いため、座礁する危険性がありました。 こちらは幕末にペリー艦隊が箱館に入港した際に作成した測量図。 海面に記入されているのはその場所の水深ですが、弁天岬の北側辺りは水深が浅く、その位置を知らせるブイがあることも記されています。このブイは開港翌年の安政3年に燈明台に変更され、その後、慶応元年には船に灯火を取り付けた灯明船に替えられたのでした。 慶応元年(1865) 9.- 箱館奉行は、アメリカ領事ライス寄贈の火灯を信教丸に取付けて箱館港常灯とし、これまでの水先案内を廃止することを幕府に報告する[箱館御用留] そして、明治4年には写真に写っている灯明船「戒礁丸」が設置されました。 明治4年(1871) 4.14 工務省は函館港内穴間岬の北端に灯明船戒礁丸を配置する[北海道志] この写真が撮影された翌年の明治30年に戒礁丸は新船に更新され、大正4年に廃止されるまで、付近を航行する船舶に危険を知らせる目標とされていました。なお、灯明船のあった場所には、現在「赤堤」が築かれています。 ○ 函館商船学校・清国領事館 町並みに目を向けると、画面中ほどに大きな建物が2棟写っています。 右側の建物は函館商船学校で左手前は清国領事館です。 明治22年(1889)10.18 函館商船学校が付属教場内からの出火により焼失する。消防組では初めて水道の水を使った防火栓よりの消火法を実験する[函新・明22.10.19] 写真に写っているのは、その後の明治24年に新築落成した新校舎になります。 明治24年(1891)4.1 鍛冶町に新築落成した函館商船学校の移転式が行われる。来賓は地方裁判所長・税関長等80余人で東京商船学校長中村六三郎が函館商船学校創立以来の成績を述べる[函新・明24.4.2] この後、明治40年の大火で焼失し翌年船見町に移転した後、大正13年に七重浜に移転し、昭和10年以降は函館水産学校(現在の北海道函館水産高校)となりました。 一方、清国領事館は、写真が撮影された明治25年に船見町に建設されました。 明治25年(1892)3.8 清国領事の黄書霖が函館に着任し、船見町40番地に清国領事館の工事が着工される[函館沿革史] どちらの建物も、写真からは建設間もないようすが見て取れます。 ○おわりに このように、4枚組のパノラマ写真の1枚目だけでも、これだけの情報を読み取ることができます。残りの3枚についても紹介したいのですが、かなり長くなってしまいそうですので、今回はここまでにしたいと思います。 なお、発表者のひとりである田原良信さんが,明治2年から明治30年にかけて撮影された12組のパノラマ写真について,博物館の研究紀要でその解説と年代比定の根拠を述べています(田原良信[2013]「明治期函館のパノラマ写真を読み解く」『市立函館博物館研究紀要』第23号,pp.27-40)。 市立函館博物館友の会のホームページで研究紀要の電子版を閲覧・ダウンロードできますので、詳しくはそちらを御覧ください。 ところで、函館山から撮影された函館港のパノラマ写真は、明治30年代初め以降、撮影されることがありませんでした。明治32年(1899)に要塞地帯法が公布され、函館および近郊において測量・模写・撮影には厳しい規制が掛けられたからです。 明治32年(1899)7.15 要塞地帯法が公布される。8月11日、陸軍省告示により函館要塞周辺の要塞地帯(区域)を定める。これ以降函館山への入山が禁止される[法令全書] この規制が解除されるのは昭和20年(1945)の敗戦後のことです。 今回紹介したパノラマ写真をはじめとして数多くの図書館所蔵の資料が、図書館ホームページ内の「デジタル資料館」で高精細画像でアップされていますので、ぜひ皆さんもズームにしてみてください。 100年以上前の函館の町並みから、思わぬ発見があるかもしれません。
by dounan-museum
| 2014-02-02 22:22
| コラムリレー
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