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市立函館博物館の小林です。前回のコラムリレーでは、南茅部地域の定置網、『大謀網(ダイボウアミ)』に関する写真を紹介しました。それらの写真は、その後、資料受入の手続きを終え、昨年の新収蔵資料展で、一般の方々にお披露目することが出来ました。 その資料は、南茅部の臼尻町で永く魚の仲買をされた家族の方から寄贈された写真で、8枚のうち4枚が大謀網による鮪漁を写した物でした。 前回紹介した1枚は、『南茅部町史』に掲載されている写真と同じ様子を写していますが、他の3枚では沖合で網起こしのさなか水しぶきを上げる鮪、定置網から臼尻港へ戻る船団の様子などが写されています。この資料が地域にとって貴重であるのは、余り残されていない大謀網の漁の様子を視覚的に伝えてくれるばかりでなく、写真の裏のメモ書きがさらに詳しい情報を伝えてくれているからなのです。 この写真は、網をたぐる漁師たち、巨体をうねらせて水しぶきを上げる鮪と、当時の沖合での漁模様を活写しています。この写真には裏書きがありますので、一部を紹介しましょう。 臼尻沖、松山漁場 七月二十三 二十四の初大漁 二日間水上げ二千本 一本四拾八貫から五十貫 二千本の金額 二十五萬円から 三拾萬円 臼尻キング寫真屋も このまぐろ の寫真にて名を賣りぬ …以下省略…(実物は縦書き) これと同じ写真が、『南茅部町史写真集 海のふるさと』の「大謀網」のなかで紹介され、隣の頁「昭和18年 鮪大漁」で、一緒に寄贈された他の写真が掲載されていることから、おそらくは昭和18年の鮪大漁を写した物だと想像がつきました。 そこで重要なのが、さきの裏書きの日付で、この漁自体は昭和18年7月23・24日であることがわかります。さらに、このメモを書いた方は、書いた日付も記載していて、それは「8月5日」でした。 ここで改めてメモを見ると、気になる一文があります。 「…臼尻キング寫真屋も このまぐろの寫真にて名を賣りぬ…」 おそらく、昭和18年7月23日から8月5日の間で、この写真が報道に使われた、新聞に掲載されたと考えて、函館市中央図書館で調べることにしました。 昭和18年当時は太平洋戦争のまっただなかで、身の回りの全ての物は政府によって統制され、昭和17年に新聞も1紙、北海道新聞に統合されていました。そこで、北海道新聞の日付を追って確認し、やっと見つけたのが次の記事です。 文字が小さく見にくいので、少し長くなりますが一部を紹介しましょう。 近年稀な鮪大漁 噴火湾 漁民の嬉しい悲鳴 烈日に射照る蒼海原を活舞台に漁民と魚が文字通り死力を尽くしての壮烈な 肉弾戦を展開する 〝鮪漁〟は道南夏漁の主流としてその豊凶如何は直ちに漁村経済に大きな影 響を与えるものだが、大東亜戦下の食糧事情解決に挺身する漁民の熱意に応 えてか-6月中旬来各地の漁報は続々好調を伝え噴火湾各地の如きは連日乗 網する1尾50貫に余る大鮪の処置に窮し砂浜と言わず市街地と言わず、輸 送不能のまま放置される数量も莫大なもので このため1尾浜渡し150・160円の大鮪も平均50円程度でしかも買 手が無いと言った嬉しい悲鳴を聴かせている…以下省略… (旧字を新字、数字は算用数字、難読文字は一部平仮名に改めた) また、「写真は噴火湾臼尻の大謀網に乗った鮪の大群」と、この写真を紹介しています。 これは、北海道新聞の昭和18年8月1日付の記事で、寄贈された写真に裏書きした方は、これを見て、「あの写真屋も、この写真で名前を売ったな」と思ったのでしょう。 細かい話になりますが、資料の裏書きと記事に記載されている数字に注目してみます。 まず重さですが、1貫は3.75kgですので、48~50貫は180~187.5kgに相当し、かなりな大鮪と言えます。次に金額ですが、当時の物価指数との比較で換算すると、当時の25~30万円は、幅がありますが現在の8,689万円から1億426万8千円に相当します。一連の操業で2千尾という数量、また,その金額から見ても、「大大漁(ダイダイリョウ)」と呼ぶに相応しい水揚げだったことがわかります。 ここで、前回紹介した写真を、もう一度見てみましょう。 艫(トモ:船の後方)に注目すると、「∧」の右に「●(白い丸)」、下には漢数字の「二」を合わせた屋号が記されています(「ホシヤマニ」)。今回紹介している漁は、松山漁場の臼尻沖の鮪定置網ですが、この屋号は全く別の家の屋号で、しかも船自体が、鰯の旋網漁(まきあみりょう)に使われた物であることが、聞き取り調査でわかりました。 しかし、実際に舷側に鮪を並べていることから、おそらく、想像以上の大大漁であったため自分たちの船では足りず、ホシヤマニさんの旋網船を借りて水揚げしたものと思われます。 この写真も一緒に寄贈されましたが、これにも裏書きがあり、そのなかに興味深い記載があります。 …省略… 今 松山漁場の船が沖から帰って来 る様らしい 七舟 (実物は縦書き) 臼尻港に向かって、大きく左に旋回しながら入港しようとする船団が見えますが、並んでいるのは8艘です。 先頭の舟はエンジンを積んだ動力船で、寄港する7艘の舟を曳航しています。後続の7艘が、松山漁場から引き上げる船です。 この写真の裏書きには、日付や日付のヒントになることは記載されていませんが、他の大謀網漁の写真と同じく昭和18年8月前後のものだと仮定すると、大規模な好漁の時は他の漁師から借りた船を併せて、このような船列を組んで帰港したのでしょう。 この後の大謀網漁でも鮪の大漁はありますが、数量は3桁、数百尾という規模で、「千尾を超える大大漁は、この頃が最後ではないか」、と地元のベテラン漁師たちも懐かしそうに当時を振り返ります。 水揚げされた鮪は素早く血抜きをし、氷を詰んだ冷蔵船で輸送しましたが、どの地方へ輸送され、どのように消費されたのかなど、まだ十分わからない点もあります。 戦後になると定置網漁は、網の強度の向上・網の構造の変化(波の影響による網の変形がしにくくなる)・機械化・船の大型化とあいまって、網起こしの省力化が格段に進歩し、現在の定置網漁へと変遷していきます。 このたび寄贈された一連の写真は、地域経済を支える基幹産業の、ある時点を捉え、多くのことを伝えてくれる貴重な資料です。 (本年5月29日と6月5日掲載、函館新聞『学芸員活動日誌』の内容は、この原稿から抜粋・加筆したものです。)
by dounan-museum
| 2015-07-21 14:48
| コラムリレー
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