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江差町教育委員会の宮原です。 ご存知の通り江差は、旧幕府軍の軍艦開陽丸が座礁・沈没するなど、箱館戦争を考えるにおいて重要な場所です。 今回は、当時江差で暮らしていた商人たちが箱館戦争時に取った行動などを概観して、その意識などに迫ってみたいと思います。 ■ 江差町にある旧檜山爾志郡役所(江差町郷土資料館)で、1点の古文書資料【請求番号 増山家文書001】を常設展示しています。 ![]() この資料は年月日未詳ですが、記された内容から、開陽丸が江差にやってきた明治元年11月以後、旧幕府軍より出された文書と考えられます。 資料には、 金三両・米一俵ずつ 柴田与次右衛門・村上三郎右衛門 開陽艦入港の節、世話行き届き神妙の事に候、これによりこれを下さる、なお出精相勤めるべく候 と記されてします。 旧幕府軍の開陽丸が江差に入港する際、江差商人の柴田与次右衛門と村上三郎右衛門が世話をしたので、金3両と米1俵を下す、という内容だと考えます。 また、江差商人の関川与左衛門は、明治2年4月8日より6月5日に至る日記【請求番号 関川家文書34-9/34-10】を書き残しています(『江差町史』第4巻所収「軍中見聞記」)。 ![]() この日記には、4月9日から始まる新政府軍の江差進攻、その後の戦い、戦後処理などが記されていますが、 官軍会議所 村上三郎右衛門 同大小荷駄 柴田与次右衛門 との記述があります。 これは、新政府軍の会議所(各藩をまとめる参謀組織)を村上三郎右衛門家に、新政府軍の兵站を管轄する組織を柴田与次右衛門家に置く、という意味です。 ![]() この看板【請求番号 00158】は、村上家に掲げられた会議所の看板で、旧檜山爾志郡役所(江差町郷土資料館)で常設展示しています。 これらを見ると、村上家と柴田家は、旧幕府軍の開陽丸が入港した時にも、新政府軍が江差に進攻して来た時にも、両方に協力をしています。 開陽丸の座礁・沈没については、水先案内人がわざと岩礁地帯に案内して開陽丸を沈没させたという伝説があります。 すると、先の写真資料は、「柴田・村上両家が開陽丸をワザと沈没させ、新政府軍がその行為に対して恩賞を施した」とも思えますが、これは想像しすぎでしょう。 おそらく、江差の商人は、自己・自家の存続のために、どちらの側にも協力をしたのでしょう。 ■ しかし、当時の江差は松前藩領ということもあり、新政府軍に肩入れをする意識はあったのだろうと思います。 前に挙げた関川家の日記(『江差町史』第4巻所収「軍中見聞記」)には、次のような記述があります。 ![]() 御人数、この時一同御役所へ御乗り込みに相成り、市中ひとまず安堵いたし候 賊、茂尻沢カネキュウ裏にて、一人打ち殺される 法花寺内に、賊十九才の小賊一人打ち殺されこれあり 上ノ国にて、百姓のために賊二人打ち殺され候よし 五ケ手村においても、百姓、賊三人打ち殺す これによると、明治2年4月9日に新政府軍が江差を奪い返して市中が安堵している様や、旧幕府軍が敗走する際に、旧幕府軍兵士が住民により殺されている様子がうかがえます。 当時の人たちは当然ながら、この戦争の結末を知りません。 旧幕府軍が勝利した場合には、旧幕府軍の兵を殺めた人々に対して処罰が行われることも考えられます。 それでも上記のような行為に及んだのは、意識として新政府軍(というより松前藩)に対して「慕う」気持ちがあったのでしょう。 また、尊王などの思想を基にして、旧幕府軍が占拠する道南を離れて青森へ向かい、新政府軍に参加をする神職もいました(宮原浩「箱館戦争と姥神大神宮」(市立函館博物館展示図録『血戦!戊辰戦争 東北・蝦夷地の戦い』)所収)。 しかし、ほとんどの人々は、意識の中での葛藤はあったかもしれませんが、柴田家・村上家のように、その時の為政者に対して、一応恭順する姿勢を取っていたと考えます。 ■ そのような中で、箱館戦争後に、旧幕府軍に与したとの理由で斬首されてしまう人々も多数いました。 江差においても、明治2年7月17日に、12名が曳き回しのうえ打首になっています。 当時の人々は、戦後に自己・自家の存続を図るため、「自分は旧幕府軍に下ってはいない」ということをアピールします。 先ほどの関川家は、松前藩による沖ノ口制度において、江戸時代中期より江差港の問屋を勤めていました。また、幕末期の館城(厚沢部町)築城に際し、藩により築城の勘定奉行に任ぜられて士分格を与えられました。 明治2年の新政府軍進攻時においても、関川家は長州藩の宿所となり、品川弥次郎などが止宿しています。 そのような関川家であっても、明治2年10月から11月にかけて、藩に対して次のような文書【請求番号 関川家文書10-129】を何回も提出し、自身の潔白を訴えています。 ![]() 恐れながら始末口上書をもって申し上げ奉り候 一、昨冬十一月大事件のみぎり、御当所御本陣において御入用金穀御借り上げ仰せ付けられ承知かしこみ奉り、これにより私ありあわせ候うち、米三斗二升入り切替四十三俵、同三斗六升入り八十俵、同三斗二升入り百四十六俵、同二斗五升入り四俵、都合二百七十三俵、ならびに金千二百両御用立て、上納奉り候 一、同月十四日暁ごろ、与左衛門儀病中につき相沼内村最寄方へ立ち退き、留守宅の義は重立ち候召遣いの者両三人残し置き候儀へ、同十六日朝、賊徒およそ十七、八人まかり越し、強いて止宿申し付けられ、同十七日、またまた六十人ほど止宿の儀申し向かわれ候おもむき、手代どもより内々通達これあり候 一、同二十日、同村より江差表へ立ち帰り、内々親類方にて養生まかりあり候 一、同十九日朝、止宿賊徒残らず引き取り申し候 一、同二十五日、またぞろ三、四人の宿申し付けられ、十二月十二日に引き取り申し候 一、去る四月九日、官軍あらせられ御進撃候みぎり、長州様御人数一小隊、御昼宿申し上げ候、同十日、御同家様御本陣仰せ付けられ、御宿申し上げ候、五月二十二日までに追々御引き払いに相成り申し候 一、二十二日夕、御同家様御人数御宿仰せ付けられ、翌朝御引き払いの節、御本陣より太儀料として御目録金十両下し置かれ候につき、その節御届け申し上げ置き候 一、同二十三日、御同家様御人数ならびに徳山様御人数御宿仰せ付けられ、同二十五日、御引き払いに相成り申し候 一、清水谷様御本営、御買い上げ品御用達し仰せ付けられ、御発籠の節、太儀料として御目録金三百疋頂戴仰せ付けられ候につき、その節、御本営御掛中まで御礼申し上げ置き候 右始末、恐れながら口上書をもって申し上げ奉り候、以上 巳十一月 関川与左衛門 支配人 茂平 つまり、 ●旧幕府軍が攻めてきた時には、松前藩に米や金を上納した。 ●旧幕府軍に江差が占拠された際、当主は不在で召使いしかおらず、しかたなく旧幕府軍を止宿させた。 ●当主が江差に戻ってからも、親類の家で病気の養生をしていた。 ●新政府軍が進撃してきた際には長州藩兵の本陣となり、引払い時には太儀料も下された。 ●清水谷公考の御用達も勤め、江差を出る際には太儀料を頂戴した。 と、旧幕府軍への協力は、当主不在時に強制されたもので仕方のないことであるとし、松前藩や新政府軍への協力を強くアピールしています。 このような訴えの成果か、関川家への咎は行われませんでした。 ■ 以上、箱館戦争時において、江差の商人がどのような行動をとったのかにつき、資料を基にして概観してきました。 この外にも、関川家文書には戊辰戦争における各地の戦いの様子を記した資料が数多く残っています。これは、北前船による交易において情報を得ていたのだと思われます。 また、関川家に伝わった古文書は総数で10万点を超えますが、旧幕府軍が江差を占拠していた時期の資料は、商売に関する資料を除きほとんど伝わっていません。 穿った見方をすれば、旧幕府軍に関係する文書を意図的に廃棄したのでは、とも考えられます。 商家は家の存続を図るため、利益追求のため、時の為政者の動向を見極めながら行動をとっていたのでしょう。
by dounan-museum
| 2013-02-13 07:00
| テーマ「幕末維新・箱館戦争」
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Comments(2)
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江差の関川家とは関係ないかもしれないですが、うちも豪商関川の子孫と言われています。しかし、分家と親父から聞きその親戚は長野県の南方高森町におり、江差関川家との地理的関係が全くわかりません。初代与左右衛門の言い伝えもありません。ただ屋号は武蔵屋で家門は丸に五七の桐、酒屋をやっていたと聞いています。先生の研究と関係ないかもしれませんがうちの先祖を知る情報がありましたら、お教え頂けたら幸いです。今は富良野に住んでおります。
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関川様
コメント、ありがとうございます。 江戸時代から明治時代にかけて江差で商いをしていた関川家は、江戸時代中期に越後国から移住してきたという由来を持っています。 屋号は「関川屋」、家印は「ヤマニジュウ」を用いていました。家紋は「丸に三つ柏」です。 明治30年代に江差を離れて東京へ移住されました。 今のところ、関川様と江差の関川家の関係は不明です。 関川様のご先祖は、江差で商いをしていたのでしょうか? ご先祖についてお調べになるのは、戸籍からさかのぼっていく方法が確実だと思います。
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