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厚沢部町教育委員会の石井です。 急遽、カレンダーに空席ができたので隙を狙って投稿します。 道南ブロックアドベントカレンダー5日目の投稿です。 4日目の森町高橋さんの投稿(「鷲ノ木の地をめぐる」)に関連して、「旧幕府脱走軍」という表現が気にかかる」という議論を耳にする機会がありました。 そこで、蝦夷地へ攻めてきた「旧幕府軍」の呼称について考えてみます。 町史等での呼称 手元の町史などを調べてみたところ以下のような使われ方がありました。 1 厚沢部町史 1969 脱走軍 2 江差町史第6巻 1983 脱走軍 3 乙部町史 2001 旧幕府軍 4 熊石町史 1987 徳川脱走軍 5 大成町史 1984 榎本軍 6 上ノ国村史 1956 幕軍 7 瀬棚町史 1991 榎本軍 8 北檜山町史 1981 榎本軍 9 今金町史 1991 脱走軍 10 大野町史 1970 脱走軍 11 新大野町史 2006 榎本軍 12 上磯町史 1997 旧幕府軍 13 七飯町史続刊 2001 脱走軍 14 鹿部町史 1994 榎本軍 15 知内町史 1986 徳川脱走軍 16 椴法華町史 1989 榎本軍 17 福島町史第2巻 1995 徳川脱走軍 18 南茅部町史上巻 1987 幕府脱走軍 19 森町史 1980 幕軍 20 八雲町史上巻 1984 旧幕軍 21 恵山町史 2007 旧幕府脱走軍 22 砂原町史第1巻 2010 幕府脱走軍 23 函館市史第2巻 1990 旧幕府脱走軍 24 松前町史第1巻下 1988 徳川脱走軍 25 新北海道史第3巻 1971 旧幕軍 呼称は大きく分けて、「榎本軍系」、「脱走軍系」、「幕府軍系」の3種類に分類できそうです。 なお「旧幕府脱走軍」、「徳川脱走軍」などは「脱走軍系」に分類します。 表記が一定しないものもありましたが、その場合は、タイトル等に使用された呼称で代表させました。 各呼称の集計 1950 1960 1970 1980 1990 2000 合計 榎本軍系 0 0 0 3 2 1 6 脱走軍系 0 1 1 5 3 3 13 幕府軍系 1 0 1 2 1 1 6 「脱走軍系」呼称が最も多く、「榎本軍系」、「幕府軍系」はほぼ同数、という結果です。 ![]() 年代別の変化 ![]() 町史の刊行は、1980年代に急増し、その後、少しずつ減っています。 2000年代に入っても町史が刊行されているのは少し意外ですが、平成の大合併を契機に町史編纂の動きが進んだようです。 「榎本軍系」の呼称は、1980年代以降に出現し、その後も一定の割合で使用されていることがわかります。 「脱走軍系」、「旧幕府軍系」は1950年代、60年代の町史から使われており、その後も一定の割合で使用されていることわかります。 「榎本軍系」が比較的新しく登場した呼称のようにみえますが、1970年代以前の町史の絶対数が少ないのではっきりしたことはわかりません。 「脱走軍系」、「旧幕府軍系」は、1950年代から近年に至るまで一定割合で使われています。 「幕府軍系」呼称について 戊辰戦争の特徴として、「旧幕府」の組織的な戦闘は、慶応4年1月の「鳥羽・伏見の戦い」以後行われず、その後の戦闘は、各藩が独自の判断で、戦闘か降伏を選択している点があります。 この中で、新政府軍に抵抗した親旧幕府派の勢力が「旧幕府軍」と呼称されることがありますが、上記のような事情を考えると、正確な表現とはいえません。 ただし、蝦夷地に渡ってきた部隊に関して言えば、艦船類はもとより、陸兵の員数からみて、旧幕府軍に所属していた部隊が大半を占めており、事実上、旧幕府勢力が主体であったことは間違いのないことです。 蝦夷地に渡ってきた軍隊の呼称として、「旧幕府軍」というのは間違いとはいえないようです。 「脱走軍系」呼称について 「脱走」は、「Desertion」の英語訳で、れっきとした軍事用語のようです。 脱走(Desertion)とは任務を放棄して部隊を離れることであり、それは同時に軍事組織における権威、規律、その他の統制を拒否することである。(Wikipedia) 上述のように、1月の鳥羽・伏見の戦い以降、旧幕府の組織的な抵抗はすでに終了しており、品川沖にいた旧幕府艦隊も武装解除を受けるべき存在でした。 しかし、艦隊を率いる榎本武揚は武装解除=艦船の引き渡しを拒否し、艦隊を率いて品川沖から脱走します。 「旧幕府」側からみて、榎本艦隊の行動は部隊単位での「脱走」とみなすことができます。 陸兵についても、旧幕臣で編成された隊や、仙台藩の額兵隊、会津藩の会津遊撃隊など、本来の指揮系統から離脱した部隊が旧幕府艦隊に合流して蝦夷地に渡っています。 要するに、榎本武揚に率いられたこれらの部隊は「脱走部隊」群ともいえる存在で、「脱走軍」という呼称にも妥当性があります。 道南における「だっそう」表現 熊石町史では「徳川脱走軍」という呼称を用いていますが、道南の町史類では珍しく、この呼称を使用した理由を説明しています。 徳川軍の呼び方については、徳川軍、幕府軍、東軍、榎本軍、脱走軍などがあるが、当時、当地方で呼ばれていた呼称の徳川脱走軍とする。(『熊石町史』p351) 「脱走軍」という言い方が熊石地方で使われていたことを「徳川脱走軍」呼称の根拠としたとの見解が示されています。 海保嶺夫氏は、箱館戦争当時、長万部に居住していた「平沢豊作」という人物が残した『長万部村平沢豊作日記』を紹介しています(海保嶺夫1986「箱館戦争と開拓農民」『列島北方史研究ノート』北方歴史文化叢書)。 この中では、榎本軍を示す表現として、「徳川家御人数」、「脱走人」という表現が用いられています。 ただし、「脱走人」は、明治2年に新政府軍との戦闘状況が悪化して「榎本軍」から逃亡した兵士たちに対して用いられているようです。 海保氏は、「「脱走人」なる書き方には豊作の榎本軍への不快感がにじみ出ている」としています。 また、榎本軍から離脱した兵士たちが内浦湾周辺で逃げ延び、「あそこはだっそうの家だ」と呼ばれる場合もあったとしています。 北海タイムスが昭和8年に行った「松前懐古座談会」や「江差懐古座談会」の席上では、もっぱら「脱走」、「脱走軍」という表現が用いられており、熊石町史が示すように、近代の道南では榎本軍を称して「脱走軍」という呼称が一般的だったことが裏付けられます。 松前や江差は松前藩のお膝元であることから、榎本軍に対する評価は低く、座談会でも榎本軍の略奪のエピソードが語られています。 「だっそう」表現には、榎本軍に対する道南住民の悪感情が根底となり、侮蔑的なニュアンスを含んで、箱館戦争後の道南で使用されてきたのではないかと推測します。 「旧幕府軍」の呼称まとめ 道南の町史類では、「榎本軍系」、「脱走軍系」、「幕府軍系」という3つの呼称が主に使用されていることがわかりました。 この中で、「榎本軍系」呼称については言及できませんでしたが、「脱走軍系」、「幕府軍系」の呼称について考察を加えました。 私自身は「旧幕府軍」という呼称を公文書では使用しています。 蝦夷地へやってきた軍隊の実態に即した呼称と考えているからです。 しかし、「脱走軍系」呼称についても、軍事用語としての「脱走」の定義に合致することや、道南住民の歴史的感情と共に温存されてきた用語である可能性が高いことから、「脱走軍系」呼称を使用する意義はあると考えます。 今回、詳しくは触れなかった「榎本軍系」の表現が古くからある表現なのか、1980年代から一般的になる用語なのかは今後の課題です。 道南には榎本軍に対する悪感情があると述べましたが、近年では、函館市を中心として榎本軍やそこに所属する軍人たち(榎本武揚や土方歳三など)をヒーロー視する見方や、積極的に観光資源として活用していこうという動きがあります。 「榎本軍」という個人名を冠した表現が一般的になっていく過程には、そのようなまちづくりや観光資源としての箱館戦争活用が背景にあるのかもしれません。 この点は分析対象として興味のあるところです。 人の感情は、時と共に変化していくものですから、榎本軍に対する評価や感情が徐々に変わっていくことは当然のことです。 その一方で、箱館戦争が当時の道南の住民にどのような影響をおよぼしたのか、当時の人びとが榎本軍をどのように評価したのか、ということも風化させずに伝えていきたいものです。
by dounan-museum
| 2013-02-15 12:29
| テーマ「幕末維新・箱館戦争」
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Comments(2)
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榎本武揚の「蝦夷共和国」を徳川幕府および薩長同盟の新政権とも違う、新政権新として蝦夷共和国を見るならば、榎本軍と言い方もまた正しいのではないでしょうか?開陽丸が沈まず、海峡を挟んで官軍側とにらみ合いを続け、国家として外国の承認を取り続けたなら、榎本軍ではなく共和国軍と呼ばれていたかもしれませんね。
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さいとう様 コメントありがとうございます。厚沢部町教育委員会石井です。本文中では「榎本軍」という呼称について触れませんでしたが、旧幕府軍、脱走軍と同じく一般的な表現ですね。
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