カテゴリ
全体 コラムリレー 市立函館博物館 函館市縄文文化交流センター 北海道立函館美術館 函館市北方民族資料館 函館市文学館 五稜郭タワー 函館高田屋嘉兵衛資料館 土方・啄木浪漫館 北海道坂本竜馬記念館 北斗市郷土資料館 松前町郷土資料館 松前藩屋敷 知内町郷土資料館 七飯町歴史館 森町教育委員会 八雲町郷土資料館 福島町教育委員会 江差町郷土資料館 上ノ国町教育委員会 厚沢部町郷土資料館 乙部町公民館郷土資料室 奥尻町教育委員会 大成郷土館 ピリカ旧石器文化館 テーマ「道南の考古学」 テーマ「道南の自然」 テーマ「道南の農業開発の歴史」 テーマ「松浦武四郎が見た江戸時代の道南」 テーマ「道南の美術を知る」 テーマ「幕末維新・箱館戦争」 テーマ「道南のアイヌ」 事務局 未分類 お気に入りブログ
リンク
以前の記事
最新のコメント
最新のトラックバック
最新の記事
記事ランキング
画像一覧
|
八雲町郷土資料館の柴田です。 今回は、箱館戦争に関わるお話と言うことですが、箱館戦争にかすった話題提供です。 「明治元年11月、榎本武揚率いる徳川脱走軍は蝦夷地を平定、五稜郭に根拠地を置くが、翌年4月9日、新政府の追討軍は蝦夷地・乙部に上陸、進軍をはじめた。」と『北海道いがいいがい物語』にありました。 年表によると、明治元年12月15日に蝦夷地平定の祝宴が各領事を招き箱館で開催され、翌年4月9日には賊徒追討軍として、山田市之充参謀の指揮する1500人の第1梯団が、乙部に上陸したとあります。 この報を受けて、鉛川鉛山で働く人々の中に、脱走軍が敗走して鉱山に来るのではないかと言う噂が流れたそうです。鉱山の責任者は、事務所にあった膨大な金銀塊をアイヌの親子に頼み、雄鉾岳の麓、桐の生えている場所に埋めるように頼んで、鉱山を後にしたそうです。その後、脱走軍は五稜郭から出ることもなく降伏し、内戦に終止符が打たれましたが、隠した金銀塊はとうとう見つかる事はなく埋蔵金伝説となりました。 前出の書物では、この伝説が生まれた理由として、地形を要因にあげています。五稜郭を追われた軍勢が、内浦湾を伝い敗走すると仮定し、鉱山近くに容易に到達でき、深く切り込んだ地形は天然の要塞として、また日本海へ容易に抜けられる条件がそろっていると言うことだそうです。 真偽の程はわかりませんが、明治5年に牢獄より禁固を解かれ出獄した榎本武揚は、開拓使四等出仕として、道内の石炭、石油などの地下資源の調査を行ったと言うことから、それだけの知識を有しており、鉛川鉛山に関しての知識も有していたと想像されます。 鉛川鉛山の創業は明和3(1766)年とも言われ、安永年間には遊楽部鉛山として金・銀・鉛を産出し、文久3(1863)年にはお雇い外国人により、日本で初めて火薬を使っての採掘が試みられた鉱山です。大正5(1916)年にはマンガンの採掘が始まり、昭和44(1969)年の閉山までに銀22㌧、金34.6kg、マンガン24万㌧、鉛5千5百㌧、亜鉛1万5百㌧を産出したそうです。 金にまつわる話としては、「北海道産業史年表」に「延宝2年遊楽部鉱山の採掘に着手し銀、鉛、金を産出した」とあり、鉱山のあった当時、山神社の前に置かれていた石臼は、その頃金を精選するのに使用したものと伝えられています。 また、昭和の初めには鉱山職員の奥さんが山麓で畑を耕しているときに土中から金の粉が出てきて、埋蔵金の一部ではないかと、鉱山職員が総出であたりをほりかえしたが、結局は何も出てこなかったと言う話や、昭和44年に鉱山が閉山となり、共同浴槽の男湯タイルの底から金の櫛が出てきたなどと言う逸話が残っています。因みに、石臼と金の櫛とされるものは、現在郷土資料館で展示しております。
by dounan-museum
| 2013-02-17 15:37
| テーマ「幕末維新・箱館戦争」
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||