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市立函館博物館の田原です。 道南ブロック博物館施設等連絡協議会「アドベントカレンダー」(テーマ:箱館戦争)26日目(最終日)の原稿です。「一本木関門と異国橋」について紹介します。 箱館戦争と一本木関門といえば、明治2年5月11日の新政府軍箱館総攻撃時に土方歳三の戦死場所として、大半の方々がご存じのことと思います。 その一方、異国橋については、箱館戦争の出来事の中にそのような名前の橋があったかな、等々ご存じない方が多いかと思われます。 実のところ異国橋については、一本木関門と同様に土方歳三の戦死場所として記されている所なのです。 箱館戦争に関する旧幕府脱走軍関係者の主な記録を見てみると、「一本木関門で戦死」と「異国橋で戦死」がほぼ拮抗していることがわかります。 下記にこれらの記録の一部を抜粋してみましょう。 一本木関門と異国橋の記述 ① 『麦叢録(雨窓紀聞)』(小杉雅之進) 松平太郎兵ヲ率ゐ千代ケ岡ヘ出張し一本木関迄進み戦へども遂に取る能はずして引揚ぐ。此役土方歳三、一本木に於て戦死す ② 『函館戦争日記』(岩橋正智) 一本木関門ヲ堅ク守リテ破ルコト不能引帰ル此役陸軍奉行並土方歳三弾ヲ負フテ死ス ③ 『南柯紀行(幕末実戦史) 』(大鳥圭介) 伝習士官隊は連戦して一本木関門の方に退きたり、夫より津軽陣屋にありし額兵隊、見国隊を出して之を防ぎ、烈戦二三回に及びたる由 此時土方歳三流丸に中りて戦死せり ④ 『土方隼人宛安富才介書状』 同五月十一日箱館瓦解ノ時、町筈れ一本木関門ニ而諸兵隊ノ指揮被遊、遂ニ同処ニ而討死せられ ⑤ 『立川主税戦争日記』 箱館ハ只土方兵ヲ引率セシメテ一本木ヨリ進撃ス、土方額兵隊ヲ曳テ後殿ス 故ニ異国橋マデ敵退ク、大森浜ハ敵ノ一艦津軽陣屋ヲ見掛テ打ツ、彰義隊ハ砂山ニテ戦フ、七重浜ヘ敵後ヨリ攻来ル故ニ土方是ヲ差図ス故ニ敵退ク、亦一本木ヲ襲ニ敵丸腰間ヲ貫キ遂ニ戦死シタモフ。 ⑥ 『中島登覚書』 同十一日土方公台場ヲ助ケンカ為、額兵一小隊伝習隊一小隊を引箱館ニ向ヒ、一本木関門ヨリ打込進ンテ異国橋辺ニ至リ、馬上ニ指揮シ遂ニ銃丸ニ当リ落命被到。 ⑦ 『島田魁日記』 然ルニ土方歳三馬ニ跨リ彰義隊、額兵隊、見国隊、杜陵隊、伝習士官隊合〆五百余人ヲ率テ砲台ヲ援ト欲シ、一本木街柵ニ至リ戦フ。巳ニ破リ異国橋近ク殆ト数歩ニ〆官軍海岸ト沙山トヨリ狙撃ス。数人斃ル、然ルニ撓ム色無シ。巳ニ敵丸腰間ヲ貫キ遂ニ戦没、 ⑧ 『函館戦史』(丸毛利恒) 五稜郭ニテハ函館ヲ奪ヒカヘサントテ副総督松平太郎 駒ヶ嶽ト名付ケシ名馬ニ跨レリ 陸軍副総督土方歳三 額兵隊星恂太郎 見国隊二関源次 神木隊布目又兵衛 士官隊渋沢成一郎 ヲ将ヒテ進撃 一本木関門ヲ破リ函館ニ攻入ル然トモ敵強ク 土方歳三 異国橋ノ邊ニ死ス ⑨ 『蝦夷之夢』(今井信郎) 五稜郭よりは副総裁松平太郎、陸軍副督土方歳三額兵隊、見国隊、神木隊、彰義隊を将い箱館を取返さんと進撃、一本木関を守りたる長州、福山の兵を破って市街に衝き入り血戦し、異国橋辺にて土方歳三、二関[二ノ関]源二(見国隊隊長)、大館昇一郎(彰義隊差図役頭取)、後藤松三郎(同下役)討死し 記録の①~⑤は、一本木関門付近での戦死、⑥~⑨は、異国橋付近での戦死の状況を記しています。 この中で、 ①小杉雅之進と②岩橋正智の両名ともに、五稜郭に配置。 ③大鳥圭介は、当日は早朝から大川・有川・七重浜方面で戦闘を指揮。 ④安富才介と⑤立川主税は、土方歳三に同行もしくは近くに配置したとされています。 これに対して、 ⑥中島登、⑦島田魁の両名は共に新撰組隊士で、弁天岬台場に配置。 ⑧丸毛利恒と⑨今井信郎の両名ともに、五稜郭に配置していたとされています。 一本木関門戦死の記録は、五稜郭から出撃した後、一本木関門で銃弾を受けて戦死したことが簡略的に記されているのに対し、異国橋付近戦死の記録は、箱館を奪還するためと出撃した目的と、異国橋付近での戦闘状況が詳しく記されています。 何故、このように異なる二つの記録となったのでしょうか。 その理由はわかりません。 この理由を考える前に、一本木関門と異国橋とは一体どんな場所で、どのような役割を担っていたのか、絵図・地図等の記録を紹介します。 一本木関門の場所と由来 「一本木関門」は、現在の国道5号線と旧松川街道が交差する付近に存在していた、休憩所・屯所であったようです。 箱館の町から亀田の五稜郭へ向かう分岐点であり、また松前街道への分岐点でもあった一本木の関門は、正に五稜郭への入口・交通の要所としての役割を担っていたようです。 一本木関門が休息所・屯所として描かれているのは、文久2年頃の「箱館亀田一円切絵図」にみることができます。 現在地にこの場所を当てはめると、国道5号線脇のオートガスステーション周辺になるのでしょうか。 幕末期に休息所・屯所として利用されていた関門は、箱館戦争開始後に大森浜方面へ向かって長距離におよぶ柵が設置され、五稜郭の前線基地的な役割を果たすことになったものと思われます。 ①現在の国道5号線と旧松川街道の交差点 国道の向かい側のオートガスステーション辺り が一本木関門に相当 ![]() ②旧松川街道の国道との交差点付近 この延長線上に五稜郭が存在(天気が良ければ五稜郭タワーが見える) ![]() ③文久2年『箱館亀田一円切絵図』に描かれた一本木関門(休憩所・屯所) (函館市中央図書館蔵) ![]() ④『遊撃隊起終南蝦夷戦争記』の一本木関門(市立函館博物館蔵) ![]() ⑤明治15~16年頃の若松町(旧一本木村)付近 (函館市中央図書館蔵) ![]() 異国橋の場所と由来 「異国橋」が存在した場所の現在地は、函館市電の十字街電車停留所付近にあたります。 現在、この市電線路に交差する形で銀座通りの道路がありますが、この道路部分は幕末期から明治20年頃まで、港から髙田屋の屋敷付近(蓬萊町)まで引かれていた掘割りが存在していました。 その掘割りに架けられていた橋が異国橋にあたります。 この橋の由来は、幕末期の享和2年(1802)に箱館奉行に任命された羽太庄左衛門正養によって「栄国橋」として名付けられたのが始まりです。 「栄国橋」は、箱館の町の外側から町中への入口にあたり、正に、国が栄えることを願って名付けられた橋で、重要な拠点だったということができます。 安政年間に箱館開港となり、港付近にはブラキストンなどの外国人が居住していたことに関連して「異国橋」と名前が変化したと思われ、現に、万延元年(1860)の「官許箱館全図」に「異国橋」の名が見えます。 また、明治期に入ると再び「栄国橋」もしくは「永国橋」という名称となりますが、明治22年頃までに掘割りが埋め立てられて道路となり、やがて「永国橋」の名は消えることになりました。 橋跡は、明治31年に馬車鉄道線路が設置され、大正2年からは市電線路となり、現在まで継続利用されています。 ⑥函館市電 十字街電停付近 銀座通りと交差する線路付近が異国橋跡 ![]() ⑦十字街電停脇の「異国橋」の看板 ![]() ⑧万延元年『官許箱館全図』に描かれた「異国橋」(函館市中央図書館蔵) ![]() ⑨明治初期の異国橋(栄国橋)付近(函館市中央図書館蔵) ![]() 上記のように、一本木関門は、五稜郭にとっての最重要拠点であり、異国橋は箱館の町および弁天岬台場(弁天台場)にとっての最重要拠点の場所であったことがわかります。 箱館の入口「異国橋」と五稜郭の入口「一本木関門」との距離は約十町とされていますので、約1.1㎞ほどとなります。幕末・明治維新当時は馬で駆けると数分ほどでしょうか。 結局のところ、土方歳三の狙撃・戦死の場所がどちらであったとしても最重要拠点であったことに変わりはないでしょうが、問題は土方歳三が弁天台場と五稜郭のどちらを重要視していたと考えるのかです。 戦術・戦略センスが高かったといわれる土方の役割・立場、性格などを考える必要がありそうです。 土方戦死の際に近くに居たとされる安富才介の記録が最も有力と考え、一本木関門を戦死場所としたと思われますが、私は、弁天岬台場救出が第一と考え、異国橋辺りでの戦死が本当であったような気がしてなりません。 弁天岬台場には新撰組隊士が存在することと、土方が箱館市中取締の役割を果たそうとする責任感などもあったように思われます。 いずれにしても、土方の埋葬地も複数の説があるように、戦死場所もまた、複数あった方が面白いのではと考えています。 また、一本木という地名と英雄の戦死場所には、「箱館」とアイヌの戦いに関する下記のような伝承があります。 「永正九年(1512)四月十六日蝦夷覆た大挙来寇し箱館、志濃里、與倉前(亀田郡根崎村にあり)の三館其攻陥する所となり、箱館の河野彌二郎右衛門尉季通政通の子 志濃里の小林彌太郎良定良景の子 與倉前の小林小二郎季景政景の子 等戦死す。傳へ云ふ、此時季通館を出て奮戦し、毒矢に中りて死す、一本木箱館亀田の間は即ち其墓なりと。」 以上の記述は、五稜郭を出て奮戦した土方が、銃弾(毒矢)に当たって戦死したという記述と妙に重ね合うようなイメージがあります。 本当のところはわかりませんが。・・・ 最後にもう一つ、箱館戦争に関する錦絵「函館大戦争之図」を紹介します。 ⑩「函館大戦争之図」(市立函館博物館蔵) ![]() 画面中央部に描かれるのは愛馬「駒ヶ嶽」に跨がる「松平太郎」、右側に斬り込みの先頭に立つ「土方歳三」の姿があります。 背後には、明治2年5月11日の箱館港海戦が描かれ、港付近の激戦であることがわかります。 この絵図は、五稜郭を出撃し、一本木関門を奪還する時、松平太郎を先頭に土方歳三以下が突撃した様子をもとにして描かれた可能性が高いのではないでしょうか。 タイトルは「一本木関門奪還の図」ではどうでしょうか。
by dounan-museum
| 2013-03-08 03:08
| テーマ「幕末維新・箱館戦争」
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