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厚沢部町教育委員会の石井淳平です。 明治元年(1868)、松前藩は200年以上にわたって本拠地のあった松前城を離れ、その本拠地を厚沢部川上流の館村に移すことを決めました。 新しい城は「館城」と名付けられ、明治元年9月に着工、同年11月15日に旧幕府軍の攻撃を受けて落城しました。 非常に短命なお城で、記録も少ないためわからないこともたくさんあります。 厚沢部町教育委員会では、館城跡の全貌を解明するため、平成17年~24年まで8年間調査を行ってきました。 ![]() 松前藩はなぜお城を移そうとしたのか 館城は松前藩の新しい根拠地としてつくられました。 単なる軍事的な基地としてではなく、行政や軍事の中心地としての機能を松前城から館城へ移そうとしたものです。 松前藩が提出した館城築城の願書には、築城の理由として以下のことが述べられています(『奉命日誌』 江差町史編集室1979『江差町史』第3巻資料編,p458)。 (1)艦砲射撃の恐れがなく、防御に適している (2)したがって、簡単な工夫で容易に築城できる (3)農業開発を進めて行くことも希望が持てる (4)のみならず、箱館に近くいざというときには駆けつけることができる 軍事上の理由、農業開発の利便性、陸上交通の要衝であることなどを新規築城の理由として示しています。 館村は農業に適しているか 現在の厚沢部町は北海道南部でも屈指の農業地域です。 しかし、近世の厚沢部川流域では農業は決して主要な生業ではなく、ニシン漁の出稼ぎや炭焼き、林業などが主に営まれていました。 このような状況は厚沢部川流域だけではなく、松前藩領全体に共通することでした。 ![]() 幕末の安政年間(1854~1859)頃から、松前藩は厚沢部川流域で水田開発を進めていたことが知られています(『脇家文書』江差町郷土資料館所蔵)。 今回のアドベントカレンダーでも江差町郷土資料館の宮原さんが「安政6年の水田開墾」というエントリーで厚沢部川流域の農業開発について触れています。 なぜ松前藩は厚沢部川流域に目を付け、農業開発をすすめたのでしょうか。 幕末の松前藩領 松前藩は北海道全域を支配していたように思われがちです。 年代によって若干変化しますが、江戸時代の後半では現在の函館市街地付近から旧熊石町までの範囲が松前藩領(和人地)でした。 それ以外の北海道は原則として「外国」であったのが江戸時代の建前でした。 図1 1669年以降の松前藩領 ![]() (海保嶺夫 1987『中世の蝦夷地』吉川弘文館,p275掲載図を参照) (国土地理院発行基盤地図情報(縮尺レベル25000)、基盤地図情報数値標高モデル10mメッシュ6239~6241・6339~6341を改変して使用) しかし、安政2年(1855)に江戸幕府は蝦夷地全島を直轄地とします(第2次蝦夷地幕領化)。 さらに安政6年(1859)には蝦夷地全島を松前藩と東北地方の諸藩に分割統治させることとしました(六藩分知)。 このことによって、松前藩領は現在の知内町から厚沢部町付近までに縮小します。 図2 1860年頃の松前藩領 ![]() (北海道1970『新撰北海道史』第2巻通説2,p896掲載図を参照) (国土地理院発行基盤地図情報(縮尺レベル25000)、基盤地図情報数値標高モデル10mメッシュ6239~6241・6339~6341を改変して使用) このような情勢の中、松前藩は藩領内で水田開発に着手し、明治元年には藩の拠点を厚沢部川上流の館村へ移すことを決めたのでした。 水田に適した平野 水田開発に適した土地の地理的条件とはどのようなものでしょうか? 水利や日照時間などいくつもの要因が考えられますが、ここでは土地の傾斜に注目して、当時の松前藩領での水田適地を考えてみたいと思います。 農林水産省の行う「中山間地域等直接支払制度」では、支援対象の農地について、土地の傾斜を基準に水田を3つに区分しています。 同様の基準は畑にも定められています。 これらを整理すると以下のようになります。 普通の水田 傾斜1/100(0.57度)未満 緩傾斜水田 傾斜1/100(0.57度)以上 急傾斜水田 傾斜1/20(2.86度)以上 緩傾斜畑 傾斜8度以上 急傾斜畑 傾斜15度以上 制度の運用上、傾斜が急になるほど耕作不利地として扱われます。 すなわち水田開発を目指すなら、まずは傾斜1/100未満の平らな土地で行うことが望ましいと言えます。 また、傾斜1/20以上となるような傾斜地は避けるべきといえるでしょう。 この傾斜角度を一応の基準として以下の分析を進めました。 幕末の松前藩領における水田適地 先の5段階の区分にしたがって、松前藩領内の土地を分類したのが下の図です。 厚沢部川流域、上ノ国町天の川流域、知内川流域に水田適地と考えられる平野が広がっていることがわかります。 また、松前城周辺には水田適地がほとんどないこともよくわかります。 図3 松前藩領傾斜区分図 ![]() (国土地理院発行基盤地図情報北海道海岸線 (縮尺レベル25000)、基盤地図情報数値標高モデル10mメッシュ6239~6241・6339~6341を改変して使用) 上の傾斜区分図から読み取れることを整理すると (1)傾斜1/100未満(青色)の土地は厚沢部川流域と知内川流域がほぼ同じ面積のようです。 (2)上記2河川に比べると天ノ川流域の傾斜1/100未満の土地は若干狭いようです。 *なお、厚沢部川流域で白抜きになっているところは、傾斜ゼロと判定されたところです。 (3)傾斜1/20未満(緑色)の土地に注目してみると、厚沢部川の中流域に広く分布していることがわかります。 (4)傾斜1/100未満(青色)と傾斜1/20未満(緑色)を合計した面積を比較すると、厚沢部川流域が水田開発に適した土地がもっとも大きく広がってるように読み取れます。 水田適地の面積比較 もう少し厳密な比較をするために、それぞれの流域における傾斜1/100未満や傾斜1/20未満の土地の面積を算出しました(数値の単位は平方キロメートル)。 【傾斜1/100未満】 その他の地域 5.24 厚沢部川流域 27.94 天ノ川流域 10.69 知内川流域 20.27 【傾斜1/20未満の土地】 その他の地域 19.63 厚沢部川流域 57.74 天ノ川流域 19.31 知内川流域 32.89 厚沢部川流域が水田適地といえる傾斜1/100未満や傾斜1/20未満の土地が最も多いことがわかります。 厚沢部川流域では傾斜1/100未満や傾斜1/20未満の土地が松前藩領全体の40%程度を占めています。 以下にグラフ化しました。 図4 流域別の面積 ![]() 傾斜1/100未満や傾斜1/20未満の土地の流域毎の構成比をグラフ化しました。 図5 流域別の面積比率 ![]() 農地開発と館城 松前藩の農業開発がどの程度進展していたのかは、今後の資料の発見を待たなければなりません。 しかし、今回分析したように、厚沢部川流域が幕末の松前藩領内において農業開発の適地であったことは間違いないようです。 明治元年の館城の築城は、現代の私たちの目から見ると非常に唐突でその意図がわかりにくいものです。 しかし、松前藩にとっては、安政年間以降の農業開発の実績のある土地として、大きな期待を寄せていたのかもしれません。 広い平野のある厚沢部川流域は、農業経営によって松前藩が生き残るための最後の望みをかけた土地だったのかもしれません。 追記 今回行った分析手法の解説記事を書いてみました。 「土地の傾斜区分毎の面積算出方法~QGISとGRASS GISを使う~」 今回の分析には、フリーでオープンなGISソフトウェアであるQGIS(ver1.8.0)とGRASS GIS(ver6.4.3)を利用しました。 どちらのソフトウェアも自由にダウンロードして利用することができます。 QGISプロジェクト日本語HP
by dounan-museum
| 2013-10-01 03:35
| テーマ「道南の農業開発の歴史」
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