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江差町教育委員会の宮原です。 今日では、日本を代表する米産地となった北海道ですが、江戸時代の北海道ではほとんど稲作は行われていませんでした。 道南地域では、江戸時代の中頃より各地で稲作が行われていた記録がありますが、どの地域でも継続的には行われていなかったようで、本格的に水田が行われるのは江戸時代末からだと思われます。 そのような経緯の中、松前藩は安政6年(1859)から厚沢部川流域で大規模な水田開墾を始めます。 その際、松前藩は越後国(新潟県)から厚沢部川流域に農夫を移住させ、水田耕作を担わせました。 ここでは、安政6年(1859)に行われた水田開墾において、松前藩が移住農夫に対して行った政策について見ていきます。 ■ 上の写真は、安政6年(1859)5月に記された「開墾規定書」(脇家文書-038)の表紙です。 記録者は、松前藩の「開墾掛」として水田開墾を担当した脇新左衛門です。 この「開墾規定書」には、この年から始まった厚沢部川流域の水田開墾についての様々な決め事が記されています。 ■ 上の写真は、資料の冒頭に記されている決め事です。 この記述を読んでみましょう。 金三両 男一人分 これは農具ならびに路用御手当てにて下され候分、ただし、陸通りまかり越し候者は、三厩風待ち中旅籠代、同所より渡海船賃、御払い下され候事、新潟より船にてまかり越し候者は、同所より船賃ならびに風待ち中旅籠代、御払い下され候事 ここには、 ①移住農夫(成人男性)1人に対して、農具の用立てや移動費用などの名目で3両が下されていること。 ②移動費用は陸路の部分のみで、三厩(青森県)で風待ちをするための宿代や、津軽海峡を渡る船賃は移住農夫が支払うこと。 ③新潟から船で渡ってくる場合、新潟からの船賃や風待ちをするための宿代は移住農夫が支払うこと。 などが記されています。 この後には、女性や子供に対する記述も見られ、それをまとめると、 ●男性へ3両 ●女性へ1両2分 ●7・8歳~12・13歳の子供へ1両2分 などとなり、女性や子供へに対しても移住費用が支払われていたことがわかります。 松前藩は、移住農夫たちが厚沢部川流域に定住して水田耕作を行うために、家族単位での移住を図っていたのでしょう。 ■ 上の写真は、別の部分に記されている決め事の一文です。 この記述も読んで見ましょう。 一、越後表の振り合いにて、一ケ月六日休日を立て候よし、差し支えもこれなく候あいだ、これまでの通りにて苦しからず候えども、しかる上は、小雨などにて休日の外に農事相休み候義決して相成らず、かつ、江差表へ買物などに相越し候義も、休日に相越し申すべく候、かつ、当人ならびに家内のもの、病気にて農事手おくれに相成りそうろうか、または人並より出精いたしたきものは、休日たりとも勝手に相働き申すべく候 要約をすると、 ●越後では1カ月のうちに6日の休日があったようだが、これまでの日数通りに休日を設けてよい。 ●休日を設けるので、休日以外は小雨などでも休まないこと。 ●江差まで買物に行くことも、休日にすること。 ●病気などで農作業が遅れそうな時や、人よりも頑張りたい者は、休日でも働いてよい。 となります。 江戸時代の農民は、年貢さえ領主へ確実に納めれば、その他の事柄についてはある程度の「自治」が認められていました。 例えば、江戸時代の農民たちは休日を設けて農作業を休むことが一般的に行われていましたが、休日日数の設定は領主が決めるのではなく、各村や地域ごとに自分たちで決めていたようです。 休日といっても、祭礼などの年中行事をみんなで行うことが多かったようで、休日の内容を見ると、その地域の特徴が現われます。 【参考:古川貞雄 2003年 『増補 村の遊び日 自治の源流を探る』。 先ほどの記述を読むと、松前藩は越後国(新潟県)から移住者を受け入れるにあたり、元々の居住地で行われていた休日慣行をそのまま尊重する旨を規定しています。 このことは、移住農民たちの「自治」を認め、移住農民たちが越後国(新潟県)で行っていた生活サイクルを認めているとも考えられます。 ■ 残念ながら現在の厚沢部川流域では、新潟県と同様の民俗伝承を確認することはできません。 移住後、風土の違いや年月を経ることによって、移入された(かもしれない)民俗伝承が、変容や消滅をしたのかもしれません。 しかし、これらの決め事を見てみると、幕末期の松前藩が、移住農民に対して物心両面から援助をし、何とか地域に定住させて、稲作を継続させたいとの意気込みを垣間見ることができます。 その結果、安政6年(1859)から10年も経たない慶応3年(1867)には、ほとんど稲作が行われていなかった厚沢部川流域に、126町歩以上(サッカー場の約175面分)の水田が営まれるようになったのです(脇家文書-060)。
by dounan-museum
| 2013-09-28 06:00
| テーマ「道南の農業開発の歴史」
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