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森町教育委員会の高橋です。 コラムリレー第7回は「北海道森町の文化財」です。 町の学芸員(文化財保護係)としての仕事は、森町にある文化財の保護に関する計画や制度の検討・整備に始まり、具体的な文化財の収集・調査・保存・活用等を行っています。今回は主な文化財(国や北海道、森町の指定文化財を中心)の紹介をしていきたいと思います。 ちなみに森町は「もりまち」と読みます。理由は定かではありませんが、慣習的に「もりまち」と呼ぶことが多く、ある時それを正式な読み方としています。また冒頭で「北海道森町」とわざわざ北海道を付けたのは、静岡県にも森町があるためです。読み方も「もりまち」です。 1) 先史の頃 まずは森町しいては北海道の歴史を知るうえで欠かせない文化財、直径37mの縄文時代後期(約4,000年前)の環状列石(ストーンサークル)が発見された鷲ノ木遺跡(国指定)です。環状列石は縄文時代の祭りや儀礼の場所と考えられ、当時の精神性を顕著に示す構造物です。 鷲ノ木遺跡の環状列石(道路は環状列石の下を通る) この環状列石は高速道路の予定地内から発見されましたが、その重要性を理解した関係者らの協力により、遺跡の地下にトンネルで高速道路を整備したことで現地保存されました。縄文時代後期に東北地方に見られる大規模なトーンサークルを構築する技術や思想が津軽海峡を越えた北海道にも存在していたことを示す重要な遺跡です。津軽海峡は弥生時代以降稲作の障壁であり、ある種の鳥や哺乳類の生息する境界線でもあるのですが、人間はどのようにこの境界を越えてきたのでしょうか。 ストーンサークルと同時代、東北地方から北海道南部にかけて発見される道具に鐸形土製品(森町指定)があります。この道具も祭や儀礼に使われていたのではないかという説がありますが、森町からは不思議な鐸形土製品が出土しています。それがイカ形土製品です(写真左から3番目)。 鷲ノ木遺跡および鷲ノ木4遺跡出土の鐸形土製品 イカに似ていますが、イカというよりも駅弁で有名な「いかめし」にそっくりです。いかめしは昭和10年代時代の考案されたようなので、時間的にはかなり離れたものですが、どちらも森町という点がとても不思議です。 イカ形土製品といかめし 2) 内浦湾の恵み 遺跡や遺物から見ると、縄文時代以降江戸時代初期頃まで人が断続的ながらも生活していた形跡が発見されていますが、わずかな数のため当時の様子はあまりわかっていません。江戸時代の後半頃からは、主に文献史料からその様子が明らかになってきます。 豊かな内浦湾に面したこの地域ではアイヌの人々が暮らし、箱館や東北地方より良好な漁場を求めて出稼ぎに来る者が古くから訪れています。やがて漁業者の定住が増え、村落を形成し、人口増加や制度的な理由により複数の村が統合され、大きな村や町へと発展してきました。江戸時代の中頃、内浦湾でとれたニシンは加工処理できないほど大量で、処理できなかったニシンを供養するために建てられたのが鯡供養塔(北海道指定)です。 茅部の鯡供養塔 ニシンが有名になると、箱館近郷からの往来が多くなり、現在の国道5号より駒ヶ岳側にあった旧街道の利用者も増加しました。その頃、万物の霊を供養する意味をもつ三界萬霊塔(森町指定)が街道脇に建てられます。 三界萬霊塔 大正時代には内浦湾の豊富な漁に注目し、アメリカで冷凍技術を学んだ葛原猪平という人物を中心に当時の最新設備を備えた冷凍工場が建設されました。その効果は大正12年の関東大震災が起きたとき冷凍した魚を東京に搬出して、冷凍技術の価値の認識につながりました。その設備の一部である冷凍機械(森町指定)が(株)ニチレイフーズ森工場の敷地内に保存されています。 冷凍機械 3) 社会的・経済的な状勢の中で この地域は良好な漁場としてのほか、開拓の歴史的背景のなか箱館から道央方面へ向かう際の交通や経済の要所の役割もありました。江戸時代後半、内浦湾からの外国船進入を防ぐため、幕府は沿岸の警備を諸藩に命じ、担当した南部藩は駐屯所として陣屋跡(国指定)や遠見処を構築しました。 東蝦夷地南部藩陣屋跡砂原陣屋跡 明治元年、榎本武揚率いる旧幕府軍が鷲ノ木の地に上陸し海岸沿いと旧街道から箱館に向かい、箱館戦争が始まりました。箱館戦争は翌年に終結し、榎本武揚は敗れたもののその才能を買われ新政府の役人となり再びこの地を訪れたという話があります。明治6年に函館から札幌まで結ぶ札幌本道が整備された際、森から室蘭までは内浦湾を渡る航路と桟橋が構築され、その桟橋の橋脚に鷲ノ木から湧き出た石油を防腐剤として塗るよう榎本が助言したということです。明治14年には明治天皇が北海道を巡幸し桟橋から森町に上陸したことを記念し、柳(森町指定)が植えられました。 行幸柳 桟橋に使われた木材は丈夫な楢や栗です。栗は茅部栗と呼ばれ、町の名前の由来となったオニウシ(アイヌ語で「樹木がしげる」の意見)の語源となる樹木だったと推定しています。今は群生場所が限られ、市街地の青葉ヶ丘公園内に栗林(北海道指定)があります。樹齢100年を超える木もあり、一説には200年とも推定されます。 茅部の栗林 以上は町の歴史や文化をよく表しているという点で価値があり、そのため特に保護が必要とされたものです。他にも調査研究が及ばず価値がわかっていないもの、保護が行き届いていないものもあるのが正直なところです。 このように文化財の背景にはたくさんの人々が関わってきたこと、そのおかげで今の暮らしがあることを忘れず、今後も業務に取り組んでいきたいと思います。
by dounan-museum
| 2014-01-19 11:27
| コラムリレー
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