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市立函館博物館の保科智治です。 前回(「平成25年度企画展「函館商人の人生模様」展示資料の紹介」)に引き続き、市立函館博物館で平成26年に開催した企画展「函館商人の人生模様」に出品した資料の解説と解読分を掲載し紹介させていただきます。 一見は百読の害? この企画展で展示解説をした際に観覧者の方に何度となく話した文言があります。それが「一見は百読の害」になるという文言でした。 博物館ではたびたび、「モノが語る」「作品が語る」という表現がされます。例えば、縄文土器ですが、土器の形や文様を文章や言葉で表現されても、私のような感性の鈍い者にとってはピンとこないことがしばしばです。 そういうときこそ、「百聞は一見にしかず」です。「口縁部の貝殻沈線文に突状の……」という説明に頭の中をグルグルとあれこれ想像していくうちに全く違うモノになってしまいます。 「あふれんばかりの情熱をキャンバスにたたきつけた、躍動感あふれる……」いったいどんな絵なんだろう? 美しい女性が描かれているのだろうか。 見てびっくり黒い絵の具を山のように盛り上げた、目の悪い右脳が機能していない私には黒い塊にしか見えないんです。やっぱり「百聞は一見にしかず」。 しかし、立体物や絵であれば、説明を聞くよりも見た方が形や状態はよく分かります。 ただ、昨年企画展で展示した資料は紙に書かれた今の時代の人ではほとんど読めないような文字で書かれたモノでした。 その上、ほとんど誰も知らない人が書いた手紙などでした。 これが、有名人が書いた手紙であれば、そこにおいてあるだけで、中身が分からなくても、下手な字でも、「●●が書いた手紙だって、スゴイね」「やっぱり●●は達筆だね」という声が聞こえてきそうです。 例えば有名人から有名人に宛てた手紙に「昨夜之於酒席失礼仕候」という文言がスラスラと書かれていたら、「スゴイなやっぱり●●は、●●と天下国家について酒を酌み交わしていたんだなぁ」と思うかもしれません。 この「酒席」がどのようなものであったかは、この手紙からだけでは分かりません。 この「酒席」の中身を知るために数百点の資料を費やすかもしれません。 その結果、「天下国家を語り合う酒席」が、実は「乱恥気パーティー」だったかもしれないのでは。 ●●はだいぶ「失礼」してしまったのかもしれません。 今年はペリー箱館来航160年です。箱館に来る前に横浜で日本の代表と日米和親条約に関する交渉を横浜でしました。 国家間の非常に難しい交渉です。 幕府代表は非常に困難な交渉をしました。 教科書でも習いましたよね。 でも、教科書を一見しただけでは分からないですよね。ぺりーというといかつい顔をして日本に強硬に開国を迫ったというイメージの人物ではないでしょうか。 昨年の流行語に「おもてなし」が選ばれ流行りました。 個人的にはペリーも「おもてなし」上手だと思っています。 横浜の交渉が一段落すると、幕府の役人を船上に招いて宴会を開きました。 船員によるダンスショーやシェフによるおいしい料理、高級なワインも振る舞われました。 お土産も用意され、奥様にもよろこばれるようなものも用意していました。 もちろん、事前に準備をしていました。 この様子は日本側の資料にも数多く残されています。 しかし、宴席ではなにかと失態はつきもののようで、多分日本側の記録にはないのかもしれませんが、アメリカ側の記録には、幕府交渉団のうちの一人が酒に酔って抱きついてきたという記録があります。 百読とはいいませんが、少し多くの資料を読まないと文章に書かれている内容と事実とが微妙にズレている場合もあるようです。 話が企画展から外れていきましたので元に戻します。 この企画展では「北前船」とか「大店」いうイメージを少しだけ崩してみたかったのです。 それは、やはり「一見は百読の害」という視点からでした。 古文書調査講座で整理したチガイヤマサ酒谷家資料を見ていくと、店を構えずに船を操り、地元にいる関係者と手紙で商売の情報交換をし、金利や相場をみてお金を動かす状況が分かりました。 チガイヤマサ酒谷家資料の詳細については、当館古文書調査講座参加者の山口精次氏が『市立函館博物館研究紀要 第24号』において「「酒谷家資料」から読み解く北前船主チガイヤマサ酒谷家の諸様相」という論考を発表されているので、そちらを参照してください。 チガイヤマサ酒谷家は廻船(いわゆる「北真船」)を数艘所有しており、船頭と葉書で連絡を取り合っています。 「北前船」というと、船絵馬などに描かれている弁財形の和船をイメージされるかもしれませんが、チガイyマサ酒谷家の中にでてくる船は西洋型帆船です。 それは「北前船」ではないという人もいるかもしれませんが、明治以降についてはこれも「気ため船」の実態の一つです。明治期の写真で港を写したものの中にも西洋型帆船が写っていますが、「一見」するとそれは「北前船」ではないと判断されてしまいます。 チガイヤマサ酒谷家の資料を「百読」した結果、見えてきたものがもうひとつあっりました。 当館に残されている資料はどちらかというと、家僕の手紙などが含まれる私的なものです。 実はチガイヤマサ酒谷家の資料はもう一種類あることが分かりました。 それは帳簿を主体としたもので、出身地に残されているもので「酒谷長蔵家文書」といいます。 同じ「酒谷」だから同じ家だろうとすぐに分かるだろう思われるかもしれませんが、酒谷姓を名乗る商人が複数いるため「一見」しただけでは分かりません。 当館にある資料の主人公は「長作」とう人物です。家族から来た手紙も残されていて、その中には子供が書いたものものあります。 その中に「長蔵」いました。「酒谷長蔵家文書」については、慶応大学教授の中西聡が帳簿類から経営の分析をされ、その研究成果を『海の富豪の資本主義 北前船と日本の産業化』(名古屋大学出版会 2009年刊行)という著書にまとめられていました。 論の展開上問題はないのえすが、中西氏の著書では人物関係に一部違う点がありました。 当館に残されたチガイヤマサ酒谷家資料や関係者の情報を得ないと分からないような点ではありましたが。 それでも、チガイヤマサ酒谷家資料を「百読」したことによって、帳簿だけでは分からなかった「北前船」船主の人生模様と経営の一面が見えたような気がします。 デジタルが幅をきかせた今の世の中では、ボタン一つであらゆる情報が得られ、きれいな画面構成で飾られたサイトが人気を呼ぶ。 会議資料は一目で分かりやすいようにフローチャートで。 0と1の間にも、フローチャートの間の線の中にも、「真実」が隠れているかもしれない。 店を構えない経営者-酒谷長作- 長作は明治6年(1873)加賀国橋立村(現石川県加賀市)に生まれました。 実家は同郷のチガイヤマチョウ酒谷家の船頭を務めていて、後に分家してチガイヤマサ酒谷家となりました。回船業を行うとともに、貸金業も行っていました。 明治40年(1907)同郷でチガイヤマチョウ酒谷家でやはり船頭を務め、後に独立して函館に店を構えたワチガイ酒谷家の四代目酒谷小三郎が死去します。後継者の五代目小三郎(幼名孝輔)が幼少のため、長作が後見人に選ばれました。 長作は単身でワチガイ酒谷家に住み、五代目小三郎が20歳を過ぎた大正4年(1915)頃まで後見人を務めていたようです。 長作は持ち船と手紙のやりとりで、樺太をはじめ日本海側を中心に市場の動向を探りながら、海産物などの売買を行っていました。 長作は店を持たずに商活動を行っていました。 立派な店を構えている商人が大きな商人というイメージですが、店を持たずに大きな取引を行っていた商人もいました。 「店舗」という目に見えて具体的なものではなく、文字として残された記録をひもといていくと、函館の商人の違った姿が見えてきます。 函館のワチガイ酒谷へ-同意書- 酒谷長作は チガイヤマサ酒谷家、酒谷小三郎はワチガイ酒谷家、両家は加賀橋立のチガイヤマチョウ酒谷家の船頭などを務めていました。 酒谷小三郎は函館に出店し、明治40年に亡くなり、その後見人として酒谷長作が選ばれました。 長作は函館のワチガイ酒谷へ単身赴任をすることになります。 同意書 右(酒谷長作)ヲ酒谷小三郎後見人酒谷長作ニ擔任セシムル事ニ同意ス 酒谷小三郎親族會員 丹保佐八郎 印 西原林次郎 印 岡崎半治 印 500073-0931 持ち船からの報告-ハガキ- 酒谷家の資料の中には船頭からの手紙が多数残されていて、相場の報告や売買の確認などが行われています。いわゆる「北前船」的商活動の一例として、「ハガキ」という通信手段を使って行っていたことが伺えます。 (表) 函館区西濱町酒谷商店御中 チガイヤマサ御主人様行 七日 鯵ヶ沢在七浦丸岩松 ![]() (裏) 拝啓仕候、陳者毎々御手数ヲ煩し忝奉謝上候、扨又御送り被下候預証書正ニ入手仕候、当港も賣價價格引上ニ相成候へ共、敢而高直ニも賣行可申候、船玉ハ本朝出帆相致候へ共、凪北風ニテ十時ニ相成候トモ沖合見申候、先ハ御報知旁 早々頓首 500073-1254 ![]() (表) 函館區西濱町酒谷商店様方チガイヤマサ御主人様 天塩国苫前郡焼尻金子商店方小福丸五作拝 (裏) 謹呈仕候、陳者去ル十六日小樽手仕舞乘船仕候ヘトモ、北強風ノ為メ出帆見合セ十九日小樽出帆、又候逆風而己ニテ漸く本朝安着仕候、 本日ヨリ積入ニ着手可候、早々積入し出帆致度存念ニ御座候、先ハ右不取敢及御案内候、艀不足ノ處ニテ、日間入り可申哉ト存候 早々頓首 第七月廿二日 500073-1256 実家にいる義兄との商談は長い手紙で-書翰- 手紙の差出人酒谷長一郎は酒谷長作の姉と結婚してチガイヤマサ酒谷家に入りました。 姉の死去後長作の妹と再婚し、そのままチガイヤマサ酒谷家に残りました。 長作との年齢差は22歳。チガイヤマサ酒谷家の長男である長作が函館に単身赴任し、婿養子の長一郎が実家に残っています。 長一郎からは商取引に関する手紙が頻繁に来ています。 十三日十四日発状着手仕候、先以御安栄之由次ニ当方皆無事暮居申候間御安心可被下、扨今度橋谷巳之吉氏ヨリ汽船買入ニ付弐三萬円借用申込之趣、月壱歩之割ニテ六七月頃迄之期間ニテ宜敷候由承諾仕候、信用之貸付之事故、彼船之保険状ニテモ書入何ナリトモ手堅ク取組スル様極情ニ引合、我等ヨリ申出ト申テ貸付ケ取計可被成候、小口預ケ壱万円計残し不足分ハ第三銀行の十二月五日定期の内ヨリ都合シテ貸付可被成候、又壱万円迄ハ大阪ニ小口預ケ之内渡しテモ宜敷候間、十二月差入ニ入用歟聞合之上御報告可被成候、遊び金待入ルモ損ニナル事故、其積リニテ取扱いスル様日歩ナレバ三銭五厘ニ定ル事七浦丸モ昨日大阪乗納メ申候、多度津モ寄セ引合致候得共、四九〇ニ不売来二月之半上ゲ五〇直入ニ候得共、彼地春直安之地ニ付見合申候、尾ノ道ニテ切出し中荷少々ト売拂候、何分元高ニ付居候間不引合ニ候也金配之義ハ大阪定キ継続シテ七分壱厘五毛迄預ケ替致長尾呉兵衛殿今度農工ヨリ壱万六千円借替スル事と致候由ナレトモ、四千円不足之分金配如何ト存じ、手元不如意ト推察致居候度々四銭歩割引約手申来候得共チガイヤマチョウニハ時之貸居候趣故見合候処、如何ナル訳ケ歟持替之義申込ニ候、未ダ月八朱半ニ利上ケ見合居ニ右様ナル事其代りニ於勢真十郎ヨリ岩崎町宅地千四百坪ニテ三萬円申込、建家三戸ヨリ無之候得共、保証人同佐兵衛ニテスル事、是モ弐万三五千円月九朱之返事仕置候得共、掛ケ合中幸町五丁目裏屋申込有之候得共、是ハ電車道チニテ一時之入用申込ニ候、市田治兵衛殿二万円之内壱万円受取、壱万円三月一日限リニ候、三原氏ハ二万五千円此三十日壱万円期日ニ候也此地ハ先日片山津山中屋之処、中根忠平買持チニ今度動橋ノ水口宇市買受ニ付四千五百円動橋本宅水田宅地トモ二千五百円〆七千円貸付月九朱半月々入ル事ニテ一ヶ年定メニ候高岡共立銀行ヱ五千円定キ年七分六厘六ヶ月間当坐壱銭五厘千円致候也八十四銀行定キ三万二千円利七分ヨリ七分四厘迄只今小口壱万三千円余月末ニハ六千円廻ル合有之候間小松清水モ二銭三厘位ヨリ借手ナシトノ事ニテ壱万五千円之処引取リ候也残リ五千円丈ケ相成候特別公債引替償還ニ相成候由三輪ヱ貸し内番号引合せスル事一昨年特別償還之千円五百円二枚如何致候哉利息トモ効無相成候テハ残念ニ候間掛ケ合スル事三十六回勧業利息十月分六枚トモ利礼取ル事三十四十一月分キュウサ貸利礼取ル事田畑岩吉分田畑平七西原十月限リ利息取リ本証書替スル事手形ハ手元ニ有之候キュウニ母上ニハ十日頃大寒サニテ臥床致候テ、老弱之爲病気ハ無之候得共、食事不進薬用致居候テ少々薬効ハ有トモ此秋ヨリ大ニ耳遠クナリ、又弱体ニテ段々弱リ、寒サ強キナリ候ハヽ持越シ六ツケ敷候様稲阪氏モ申居候、食事不望ニハ困入候、床ニ付居候日々見廻リ候爲只々彦作ニ逢ヒ度ト申出ニ付、一両日前彦作モ帰村致居候テ喜ひ居申候也在所之二三人之年頃ニモ候間、年ニハ不足無之処之一日テモ存命祈居候也、田中老母ニ宜敷御伝言可被下候先ハ右御案内御返事迄可申上候也 十一月十七日 チガイヤマサ長一郎 長作殿 500073-0143
by dounan-museum
| 2014-06-16 03:38
| コラムリレー
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