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北海道坂本龍馬記念館の三輪貞治(みわ・ていじ)です。 北海道も残暑が続いています。 皆さん夏バテなどしていませんか? 夏のレジャーの合間、時には静かで涼しい博物館でゆっくり展示見学を楽しむのも良いですよ。 今回のコラムリレーでは津軽藩の西洋砲術師範・岩田平吉と黒田清隆を取り上げます。 五稜郭築造150年と北海道坂本龍馬記念館企画展示 五稜郭は今年で築造150年を迎えました。 五稜郭は、安政元年(1854)の日米和親条約に伴う箱館、下田の開港に伴い、蝦夷地(北海道)の政治、外交、防衛の要所として元治元年(1864)年に完成しました。 現在、国際観光都市となった函館においては、開港に伴う幕末から明治期の繁栄と歴史的事跡が観光資源の源流であり、五稜郭築造の歴史も重要な観光資源の一つです。 北海道坂本龍馬記念館では五稜郭築造150年を記念し、黒田清隆に西洋砲術を指南し、箱館戦争では津軽藩青森口総轄の家老・杉山上総の参謀として活躍した西洋砲術師範・岩田平吉と、征討軍参謀として要職を占め、後に開拓使長官や第2代内閣総理大臣などを歴任した薩摩藩士・黒田清隆ゆかりの貴重な資料を展示・公開しました(5月17日~6月17日)。 ここではその一部をご紹介します。 なお、全ての展示資料は、岩田平吉ご子孫・岩田宣浩氏(青森県五所川原市)のご厚意により、期間限定で特別に借用したものです。 ◆岩田平吉恵則 天保6年(1835)5月24日~ 明治28年(1895)4月4日 津軽藩における砲術家。安政3年(1856)の江戸遊学にて兵学者・山脇世民に師事し、安政5年に帰郷して稽古館教授となりました。 文久3年(1863)、藩命により再び江戸に出て、江川太郎左衛門英龍の塾で西洋砲術や兵学を学びました。 この頃、岩田の兵学は江戸でもよく知られており、ある日、黒田清隆が弟子入りを願い出るために岩田のもとを訪れ、入門を許された黒田は、初対面ながら10年ぶりに友人と会ったような気がしたと、頭を下げて喜んだといいます。 元治元年(1864)に帰郷、津軽藩の兵制改革を主張しました。 明治元年(1868)に勃発した箱館戦争では、津軽藩青森口総轄の家老・杉山上総の参謀として軍務に努め、勲功を奏した後、新政府軍参謀・黒田清隆と共に軍務を掌理して凱旋を果たします。 明治4年(1871)兵部省に出仕。翌年海軍省に転勤となり、造船局砲器科勤務となります。明治9年8月に職を辞して郷里弘前に帰郷し、晩年は閑居生活を送りました。 ◆黒田清隆 天保11年(1840)10月16日~ 明治33年(1900)8月23日 薩摩藩士、陸軍軍人、政治家。通称は了介。 薩摩藩士として西郷隆盛や坂本龍馬らのもとで薩長同盟成立のために奔走。明治元年(1868)~2年の戊辰戦争では北越から庄内までの北陸戦線と箱館戦争で新政府軍の参謀として指揮をとりました。 開拓次官、後に開拓長官として明治3年~5年まで北海道の開拓を指揮。 開拓使のトップを兼任しつつ政府首脳として東京にあり、明治9年に日朝修好条規を締結し、明治10年の西南戦争では熊本城の解囲戦で功を立てました。翌年に大久保利通が暗殺されると、薩摩閥の重鎮となります。 しかし、開拓使の廃止直前に開拓使官有物払下げ事件を起こして指弾されました。 明治21年4月から内閣総理大臣。 在任中に大日本帝国憲法の発布がありましたが、条約交渉に失敗して翌年辞任。 その後元老となり、枢密顧問官、逓信大臣、枢密院議長を歴任しました。 上:松前藩主・松前崇廣公から津軽藩主・津軽承昭公への書状。 右下:「武州久良岐郡横浜村 異国人応接所絵図」ペリー来航時、岩田平吉が津軽藩の命により、調査のために横浜へ出向いて描いたもの。 左下:「五稜郭絵図」津軽藩の命により、岩田平吉が安政四年(1857)、五稜郭築城中に箱館に出向いて描いたもの。 ◆岩田平吉と黒田清隆の交流 文久3年(1863)、岩田平吉が津軽藩命により、江戸駿河台で西洋砲術や兵術の研鑽を積んでいた頃、20歳前後の青年が彼を訪ねてきました。 その青年は“江戸では今、岩田といえば誰一人として知らぬ者はない”と語り、その場で弟子入りを申し出ました。 その青年こそ黒田清隆その人でした(このくだりは勝海舟に弟子入りを申し出た坂本龍馬を彷彿させます)。 岩田はその申し出を断り、黒田に家へ帰るよう促しますが、黒田は許しが出るまで帰らないと粘ったため、岩田はとりあえず黒田に別な部屋を与え、その晩は寝床に入りました。 ところが、夜中に異様な物音で目を覚ますと、黒田は縁側で腰の一刀を抜き、「えいやっ!」という気合と共に素振りをしています。 驚いた岩田が「君は私を斬るために来たのか?」と問いただしたところ、黒田は「それは先生の思い違いであります。 私は心のゆるみと眠気で正座ができなくなったので気合を入れていたのです」と答えたそうです。 実は、岩田が故郷の弘前で藩士たちに西洋砲術を教えていた頃、反対者に三度も命を狙われた経験があり、黒田についても津軽藩の誰かの差し金で頼まれた刺客ではないかと疑っていたのです。 そのことを聞いた黒田は、それは全くの誤解で、生麦事件後全く無防に等しい状況の薩摩藩のために今すぐにでも西洋砲術を学びたいという気持ちでやって来たことを熱く語り、その志を知った岩田はその場で弟子入りを許したといいます。 箱館戦争終了後も二人の親交は続き、黒田は東京・北海道間移動の際には岩田家を度々訪ねて酒を酌み交わしたそうで、今回展示させていただいた徳利、小鉢、猪口などは、黒田が岩田邸を訪れた際に持ち込んだと伝わる大変貴重なものです。 ◆箱館が繋いだ人間模様 岩田に弟子入りした黒田は、後に戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争で再び出会うことになります。 岩田は新政府軍として戦った津軽藩青森口総轄の家老・杉山上総の参謀として軍務に努め、勲功を奏した後、参謀・黒田清隆と共に軍務を掌理して凱旋を果たしました。 旧幕府軍が降伏し、総裁である榎本武揚が日本の将来のためにと大切にしていた『海律全書』を黒田に手渡す際、実は岩田も同行する予定でした。 急用によってそれは叶いませんでしたが、榎本はそれ以前から既に岩田のことを知っていたといいます。 実は、かつて江川太郎左衛門英龍という人物が江戸本所の自分の屋敷にジョン万次郎を引き取り、自らの塾でアメリカ事情を話させていた頃、榎本武揚はそこで海外事情を学んでいました。そして岩田も、旧幕府軍の参謀として榎本と共に戦った大鳥圭介から江川塾で西洋兵学を学んでいたのです。ちなみに、岩田は英語もオランダ語も学んだ秀才でした。 ◆結び 昨年の10月12日、札幌時計台創建135周年記念事業の一環として、不肖私が『坂本龍馬と黒田清隆』のテーマで講演をさせていただいたことがご縁で、当時の札幌時計台館長・岡本征之氏のご紹介により、岩田平吉のご子孫である岩田宣浩氏との知遇を得ることができました。 それまで私は岩田平吉という人物を知りませんでしたが、今回、このような形で岩田宣浩氏と出会い、貴重な資料を展示させていただくことができたのは、やはり先人とのご縁、そして引き合わせのお蔭であると思います。 函館は北海道で唯一幕末動乱の歴史を持ち、龍馬が新天地として目指した土地です。 そして近代日本誕生の一翼も担いました。今も幕末維新の志士たちの息吹が生き生きと感じられるすばらしい街だと改めて感じています。 当コラム執筆に際しては、岩田宣浩氏、岡本征之氏に大変お世話になりました。また、岩田氏所蔵の『西洋砲術師範岩田平吉恵則伝』(岩田春海 私家版 昭和56年)を参考にさせていただきました。
by dounan-museum
| 2014-08-28 16:14
| コラムリレー
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