カテゴリ
全体 コラムリレー 市立函館博物館 函館市縄文文化交流センター 北海道立函館美術館 函館市北方民族資料館 函館市文学館 五稜郭タワー 函館高田屋嘉兵衛資料館 土方・啄木浪漫館 北海道坂本竜馬記念館 北斗市郷土資料館 松前町郷土資料館 松前藩屋敷 知内町郷土資料館 七飯町歴史館 森町教育委員会 八雲町郷土資料館 福島町教育委員会 江差町郷土資料館 上ノ国町教育委員会 厚沢部町郷土資料館 乙部町公民館郷土資料室 奥尻町教育委員会 大成郷土館 ピリカ旧石器文化館 テーマ「道南の考古学」 テーマ「道南の自然」 テーマ「道南の農業開発の歴史」 テーマ「松浦武四郎が見た江戸時代の道南」 テーマ「道南の美術を知る」 テーマ「幕末維新・箱館戦争」 テーマ「道南のアイヌ」 事務局 未分類 お気に入りブログ
リンク
以前の記事
最新のコメント
最新のトラックバック
最新の記事
記事ランキング
画像一覧
|
市立函館博物館の保科です。 「自然豊かな函館山」、本当? 「大自然豊かな北海道の大地に放牧される牛たち」、本当? 函館山の江戸時代の絵図を見るとどうも山にはあまり樹木が生えていないように見えます。函館山には直径が1メートル余りの杉の大木があります。なんとなく千年位の樹齢かと思わせぶりな。しかし、その自然に生えている杉、実は200年ほど前に人間が植林したものなのです。その後も杉の植林は何度か行われています。200年も経過すればもうそれは「自然」だと言われれば、それまでですが。また、函館山は明治20年代後半から昭和初期にかけて「要塞」として砲座や道路など軍用施設の大規模な造成工事が行われています。 北海道の代表的な景色のひとつ大草原の牛の放牧、その大草原はもともと原生林が広がっていて、開拓者が苦労の末に切り拓いたものが大多数で、人間が作り出した風景だと思います。広大な草原で牛が牧草を食べる様子は「大自然」というイメージを持ちますが、牛も本来そこには生息しない生き物です。 本州に目を向けると、例えば木曾や飛騨といった豊かな森林地帯が広がる地域は、山をよく見ると特定の樹種がきれいに並んで生えているのを見かけます。以前にある森林豊かな山間地域で年配の方から、「昔はこの辺の山はみんな、はげ山だったんだ」といわれたことがありました。確かによく見ると樹齢がほぼ揃った樹木が一定間隔で不自然なほどきれいに育っていました。 昨年は「ありのままで」という曲が流行りました。ありのままの自然という言葉を耳にしますが、それは人間にとってはすごく厳しいものだと思います。それを受け入れて生きて行ければ人間は特に進化する必要は無かったのではないでしょうか。ありのままの自然は、人間が生きて行くには厳しすぎるから、それを和らげる道具や工夫をしていくうちに今の人間社会に進化していったような気がします。 自然に対する接し方も、私のような普段なるべく自然とは触れ合わないような生活をしている者からみると、自然派な人たちに不自然な感じを持つことがあります。ありのままの自然を愛するアウトドア派の人たちは、大きな車で自然に乗り込みハイテク機器を使いこなして「自然」と自然に接しています。自然保護に取り組む人たちは、山に自生する貴重な植物や海にいる希少動物を「自然」に一生懸命保護されています。普段自然とは接しない私も、庭の雑草が伸び放題になれば雑草抜きをして自然と触れ合います。雑草を抜いていて思うんです。去年はこの草無かったな、同じ草でも生える場所で大きさが違うな。雑草も抜かれながら進化してるんだろうな、と。でも、雑草だから抜かれてしまう。貴重な、希少な、ものであれば守られたかもしれないのに。視点を人間に置き換えてみると、自然と同じかもしれない。一部の少数の権力者や有名人は守られるけど、その他大勢は……。 曲がった気持ちを持っているので自然のことを「自然」に語ることはできませんが、今回は歴史というフィルターを通して人間と自然の関係をほんの少し紹介することにします。道南の自然が本題ですが、的外れな内容をご容赦いただければ幸いです。 下記に紹介するのは、2004年に函館市公民館で開催された北海道開拓記念館公開講座「北海道における過去2000年間の古環境と人とのかかわり」において発表した「史料からみた蝦夷地の樹木と林業」の内容を要約したものです。 報告では、人間が生きていく上で必要な、モノを生産する活動そして消費する活動によって変化する自然環境、その活動によって変化する自然環境によって変わっていく社会環境を検討していくことを目的に、現代的問題とも関わる、木材の生産とその消費の在り方を江戸時代の蝦夷地で行われた事例を紹介しました。少しだけ道南の樹木の状況が出てきますので、それをもって「道南の自然」という今回のテーマにかすっているということでお許しください。 ■「環境史」 今回は自然をテーマにしていますが、歴史学からアプローチする際に「環境史」をキーワードにした取り組みがあります。報告した頃に発表された論考類を参考にあげておきました。 ・橋本政良編著『環境歴史学の視座』(2002年1月 岩田書院) 「環境歴史学は、(中略)(1)歴史上に存在した環境問題を発掘する。(中略)(2)現代に残る文化財や歴史的遺跡及び埋蔵文化財・発掘遺跡等の保護・保存のための歴史的研究をおこない、併せて啓蒙的活動をおこなう。(中略)(3)現代社会に起因する環境問題について、歴史学的にアプローチする方法を模索し、問題解明のために参加していく。」 ・国立歴史民俗博物館『歴史研究の最前線vol.2 環境史研究の課題』(2004年3月31日 吉川弘文館) 「民俗学、文献史学、考古学といった既存の学問体系を環境史という新しい枠組みで捉え直す」(「本書の刊行にあたって」) 「環境史研究で重要なのは、眼前の問題を歴史的文脈に再定位させ、将来の見通しを描き出す方法論である。」(柳田宗平「いま、なぜ環境史か―魚と人をめぐる比較環境史―) ・歴史科学協議会編集『歴史評論』650(2004年6月1日 校倉書房) 「「環境」にかかわる主題を扱えば、即、「環境史」になるわけでもなかろう。森林史、開発史、自然観の歴史、気候史などはいずれも環境にかかわる主題を扱うが、すでにそれらは環境史が出現する以前から有り、それぞれに豊かな研究成果を有している。(中略)環境史を定義するのはその対象や主題ではなく、アプローチの背後にある危機意識であるといえよう。」(「特集にあたって」) ・飯沼賢司『環境歴史学とはなにか』(山川出版社日本史リブレット23 2003年9月25日) 「従来の歴史学は、人間が形成した社会の歴史であり、人間社会の外にある現象や人間以外の事物に対して、ほとんど関心を示すことはなかった。(中略)環境歴史学は、ヒトから自然への働きかけだけではなく、自然から人間に働きかけられる災害などのファクターをも問題にするのである。」 ■江戸時代の用材となった樹木 ・吉野地方では上中下の3つの区分が設定され、それらは時代によって多少異なる。 寛文7(1667)年―(上木)檜・槙(まき)・榧(かや) (中木)槻(けやき)・真多(まいた=とがさわら)・かうばち(香鉢=しおじ、とねりこ) (下木)松・杉・樅(もみ)・栂(つが)・桜・朴(ほお)・橿(かし)・栗・五葉松 享保20(1735)年―上木=槙・榧・檜 中木=まいた・こうばち 下木=松・杉・樅・栂・朴・栗・五葉 明和5(1768)年―上木=檜・槙・榧 中木=真田・香鉢 下木=松・杉・樅・栂・朴・栗・桂・五葉 (谷彌兵衛「近世吉野地方の材木生産の発展」『徳川林政史研究所研究紀要』36 2002年3月31日) ・木曽地方では森林が荒れたため伐採を禁じる留木の設定が行われました。 宝永5(1708)年=檜・椹(さわら)・明檜(あすひ=ひば)・高野槙(こうやまき)) 享保5(1720)年=栗 享保6(1721)年=ねずこ(くろべ=黒檜) 享保7(1722)年=松 (所三男「採取林業から育成林業への過程」『徳川林政史研究所研究紀要』昭和44年度 1979年3月30日)) ■蝦夷地の樹木 ・「七木之類、たとへ小木たりとも伐取申間敷事」-指定木の伐採禁止 七木―ひば・ごようまつ(きたごよう?)・とどまつ・せん・かつら・ほお・しころ(きはだ) 伊藤源作「北海道林業史の研究(1)松前藩の林政に就いて」(『北海道大学農学部演習林研究報告』14巻2号) ■「東蝦夷地各場所様子大概書」(『新北海道史』第七巻史料一)からみた蝦夷地の樹木 ・文化5~8(1808~11)年の記録―用材となりうる樹種を報告 (場所 樹種 摘要) 山越内 はんの木・かつら・雑木 薪伐出し ユウラツプ椴の木・雑木 材木伐り出し ヤマサキ 椴の木材木伐り出し シラリカ 椴木 材木伐出し クロイハ 椴木・おんこ・雑木 ホロナイ 雑木・椴木 モンベツ 蝦夷松 オシヤマンベ 蝦夷松・雑木 薪を伐出す ネツノサン 椴木・雑木 伐出し方至て悪敷 觸内 雑木 薪炭出産 辧部 椴木・唐松・雑木 伐出し方都合宜敷 ヲツフケシ沢奥 雑木・椴木 伐り出し方宜敷 禮分下 雑木・せん・かつら 伐り出し至極の処 トレブタナイよりシツカリ 椴木 伐出し方不弁理 小砂留別 椴・唐桧(唐松?) 伐出方宜所・材木度々伐出し モン別 せん・かつら・雑木 伐出し方は宜敷所 壽山 唐桧 母衣別 雑木 白老 雑木・カツラ・ハンの木・タモ木類 千年川 楢・柏・柈・椛(かば) アツマ山 とと・桂・せん・板屋・楢・柏・椛 サル 椴・桂・梅・桜・柳・厚朴(ほお)・柏 新勝府 椴・桂・梅・桜・柳・厚朴・柏・楢 シツナイ 椴・桂・梅・桜・柳・厚朴・柏・楢 三ツ石 椴・桂・梅・桜・柳・厚朴・柏・楢 浦川 柏…桜・せんの木・楢の木・柳・くるみ・はんの木・いたの木・たも木・さんせう シヤマニ 蝦夷松・姫小松(きたごよう?)・椴・桂・柏木・柳・梅・イタヤ・楢・桜 ホロイツミ 姫小松・椴・桂・柳・柏木・楢木・ホウの木・栗・桑の木・タモ木・ハンの木・イタヤ・センの木・サンセウ・ニキユウ(さるなし・こくわ)・ヲンコ・椛の木・萩 戸勝 桂・いたや・たも木・せん・楢・はんの木 久壽里 蝦夷松・せん・いたや・ほうの木・たも木・はんの木・椴 悪消 蝦夷松・せん・桂・椴松・いたや・おんこ・雑木 根諸 蝦夷松・せん・桂・しころ・たも木・いたや・楢・柈・柳・かば・しゆり(しうりざくら?)・おんこ ■「飛騨屋蝦夷山請負関係文書」(『新北海道史』第七巻史料一所収)からみた飛騨屋の蝦夷地での木材生産 享保3(1718)年 臼御山(おふけし川・へん部川・おさるべつ川) 夷桧葉(八ヶ年運上金五千両) 杣百五拾人 改人六人 手代并米はこび拾五人 鍛冶三人 大工 木挽 加勢 元文元(1736)年 尻別御山(不足の場合、悪消御山) 蝦夷桧葉((五ヶ年運上金六千両)) 本杣七拾人 手代 杣頭 米持 鍛冶 加勢 材木高壱万四、五千石目 元文5(1740)年 尻別御山 尾申別御山 悪消御山 蝦夷桧葉((五ヶ年運上金壱万両) 手代 杣頭 鍛冶 米持 加勢 壱ケ年材木石高壱万八千石目(寸方弐百八拾丁立百石目の積)(弐間六寸才廻し弐百本にて百石目の積) 延享2(1745)年 御領内北村目名 御囲桧葉(五ヶ年運上金弐千三百両宛(江差山師ともに)) 杣五拾五人 手代 杣頭 米持 鍛冶 加勢 「生木立薄桧葉空地の所えは小桧葉植付可仕候」 「桧葉生立不申様成湿地の所えは、杉苗調下」 延享3(1746)年 あつけし御山 「尻別山不勝手の砌は、あつけし山杣入(中略)当年迄延引仕候。弥壱ケ年越年の試仕候て冬働も相成候は」 延享5(1748)年 しりべつ御山 夷桧葉 「去卯年杣入にて相済申処、近年山方不景気に付(中略)右元伐残石少々も出し申度」 下夷地あつけし御山 夷桧葉(運上金五ヶ年三千両) 壱ヶ年壱万千石宛(寸甫百石に付、弐百八拾丁立の積り) 「猶又停止の桧葉・松・栂・椹等見付候は、早速御注進可申上候」 宝暦3(1753)年 石狩御山 夷桧葉(運上金八ヶ年四千八百両) 壱ヶ年壱万弐千石宛(寸甫百石に付、弐百八拾丁立の積り) 「午未両年悪消御山え杣入仕候。其後取木無御座候に付、石狩御山尻別川え引越」 「此節より手船仕入船等心懸、御当地并南部津軽の内え中漕為仕、夫より江戸大坂に雇船にて為積登」 「若又停止の桧葉・杉・栂・椹等見付候はゝ、早速御注進可申上候」 宝暦8(1758)年 御領内木古内山 仕入金高三百両 材木四千石 「貴殿え一円に仕入相頼」 宝暦10(1760)年 「金千六百拾七両壱分 右は木古内山仕入金借用」 宝暦11(1761)年 「椴材木江戸大坂え両三年の間罷登、蝦夷桧葉材木揃方不宜」 「段段御山方も手遠に罷成、木取一向はか取不申候」 「先年壱万弐、三千石目取出し候人数にて、此節は漸八、九 千石目ならて出来不仕候」 宝暦11(1761)年 椴惣山御留山 宝暦11(1761)年 尻内跡山 御礼金弐百七拾両(先納金共に金千両) 材木壱万石目 宝暦11(1761)年 喜古内山材木有高三千四百石余 喜古内并浜中囲弐千石目 尻内川添に囲六千石目 幸連渡場囲 都合壱万千四百石余 ■まとめ 蝦夷地林業の盛衰は本州系の大資本林業経営に左右されます。史料からは伐採業者が伐採場所を変えていることや、伐採場所が遠くなる、伐る木が無くなるといった表現があることから蝦夷地においても一定度の森林疲弊はあったようです。林業に伴う杣人などの多数の人が森林内で活動することによる森林破壊もあったと思われます。 寛政期以降、本州系大資本の林業がほとんど行われず、蝦夷地の森林資源は疲弊が少なかったようです。しかし、道南地方のヒバ材は地元山師などにより伐採が続けられていたようです。 本州では用材の生産・消費活動が拡大し、森林の荒廃による土砂災害や洪水が頻繁となり、林業の抑制を実施しました。人間の生産・消費活動が環境に影響を与え、少しの環境変動(大雨・暴風)が災害といったかたちであらわれました。 現代でも、東南アジアにおける大資本による大規模な森林伐採は自然や社会環境へ影響を与えています。また、植林による人工林の増加は、地盤の弱さにつながり災害を拡大させている事例があります。 江戸時代の林業の実態をみていくと、このような事例への問題提起や解明の手掛かりとなるのではないでしょうか。
by dounan-museum
| 2015-02-04 05:25
| テーマ「道南の自然」
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||