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市立函館博物館の小林です。 この写真は,南茅部地域の臼尻町,臼尻厳島神社の海側に屹立する弁天島とそこに掛かる橋を描いた「弁天島八千代橋の図」で,函館市の有形文化財に指定されています。銘には星路とあり,この画家が旅の途上でこの地に立ち寄り,お世話になった地域の人々にこの絵を描いて残したこと以外,この画家の詳細はわかりません。制作年は大正4年で,この八千代橋が掛けられたのが,まさにこの年のことでした。 上の写真は,橋が架けられる前(大正2年)に西方にある臼尻漁港から弁天島を写した物で,大岩がうねるように屹立する弁天島をはじめ,大小の島,岩礁・磯場が沖へ向かって連なっています。臼尻港は湾口の東部にこの島嶼が連なり,江戸時代から船舶関係者や漁業者には,天然の良港として良く知られていました。特に函館~室蘭航路の航行者にとっては,時化の時の唯一の避難港として重要な位置を占めていました。 この弁天島を臨む陸地に臼尻厳島神社がありますが,その神社誌には次のように記されています。 享保(1716~1735)の頃,尾札部場所知行主の新井田金右衛門が箱館奉行所に在勤中,砂原に向けて航行する途上,強風に遭い臼尻の入江で危うく難を避けた。金右衛門は航行の安全を神に謝して,臼尻の小島に一つの石を祀り,村人も以後これを祈願するようになった。 この後,安芸の宮島より厳島神社の神霊を勧請して祀ったので,厳島神社の主神市杵姫命(いちきひめのみこと・弁天様)を祀る島として,弁天島の名で呼ばれて来ました。また,臼尻港が良港であるのは,この島嶼が連なるためであり,さらには,この岬状の先端部が海上航行の目印となることから,この先端部(弁天岬)も漁業者が心を寄せる対象となり,ここには魚藍観音(ぎょらんかんのん・三十三観音の一つで,魚籠(びく)を持った観音。悪鬼・羅刹・毒龍の害,海の害を除くと考えられ,漁業関係者の信仰を集めた)が安置されるようになりました。 こうして,この島嶼部は人々の心の拠り所となり,お参りに通えるように,船を何艘もつないで歩み板を渡して,歩けるようにしていました。しかし,波の高い時,強風の時などは,それもかなわず,安全にお参り出来るようになることを,人々は願うようになりました。 そこで,立ち上がったのが臼尻青年団でした。大正天皇即位の御大典に因んで,大正4年,全国的に大きな記念行事が計画されますが,臼尻地域では,各種団体が様々な行事を執り行いました。その一環として臼尻青年団は,地域の大関心事であった弁天島への架橋を実施しました。その写真が絵葉書にされるほど,地域の人々にとっては一大壮挙として歓迎されました。こうした地域の人々の熱い想いが,旅路の画家の絵筆を執らせたのかもしれません。 その後,昭和10年に臼尻港(臼尻船入澗)が竣工するなど,周辺の地形は大きく変化し,弁天岬は文字通り地続きの岬となり,八千代橋も役目を終えて姿を消します。この1枚の絵画から,100年前の地域の記憶をうかがうことが出来ます。
by dounan-museum
| 2015-09-14 00:01
| テーマ「道南の美術を知る」
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