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八雲町郷土資料館の柴田です。 テーマが重複しますが、弁開凧次郎について紹介します。 弘化4年(1847)に、弁開凧次郎は父ベンケイ(ペンケイ)、母ピララキ(ビレテキ)夫婦の長男として落部村(現八雲町落部)に生まれる。父ベンケイは落部の総乙名と記述されているものもあるが、安政2年(1855)の「落部村蝦夷人別帳写」には乙名コンホとの記述がある。イカシパ(イカスパ)と名付けられる。文久2年(1862)イカシパ15歳の時に家督を相続するが、幼少であることから一時イナワニという人が総乙名を継ぐ。『御所の松 弁開凧次郎と村岡格』によると、「日高の家畜商に従って、よく函館方面に往復している間に、馬の商いに精通して、(中略)馬の病気や負傷に対する手当をすることを覚え、その腕前が上がり、近所の人に頼まれ馬の医者として重宝がられた。後には黒松内や瀬棚方面にまで出張治療を行うようになったという」と記されている。 慶応元年(1865)イカシパ18歳の時に、森村と落部村でイギリス領事館員らによるアイヌ人骨盗掘事件が起きる。この地域は箱館からおよそ40キロで、当時幕府が各国と結んでいた友好通商条約によって、外国人が自由に旅行できる区域に含まれていたそうである。箱館奉行小出大和守秀実の談判により事件が解決され、慶応2年に落部村の13体の遺骨の返還があり、慰謝料によってアイヌ人墓地に慰霊碑が建立された。『学問の暴力』によると、「最終的に英国側は総額およそ三五五両を支払うこととなり、(中略)落部村では、この金を使って一三名のアイヌの墓碑を建立した。ただし、アイヌは御会所の庭に土下座して座らされ話しを聞かされただけで、誰も慰謝金を受け取らなかったという話が、『落部村郷土史』に記されている。慰藉金は村役人が処分したという噂だったが、役人が怖くて誰も請求できなかったそうである」と記されている。 ![]() 明治9年(1876)イカシパ29歳の時に、弁開凧次郎と和名をつけたという。「旧土人戸口調」によると、その当時の落部村では、和人77戸407人、アイヌ21戸77人となっている。 明治11年(1868)凧次郎31歳の時に、イギリス人宣教師のジョン・バチェラーがアイヌ人の生活を観察するために、オテシベ(落部村)を訪れている。『ジョン、バチラー自叙伝 わが記憶をたどりて』には「二三軒の家を訪れましたが主人達は皆大層従順で又親切で御座いました。道具類はアイヌの物の外日本出来のも沢山見ました。着物は大抵日本のものでした。相互に話をする時はアイヌ語でしたが然し皆日本語も能く知てをりました(中略)唯日本人がアイヌ人に向かつて話をする時あまり軽蔑し下等な言葉を使ふのは面白く無い事だと思ひました」と記されている。 明治32年(1899)凧次郎52歳の時に、「北海道旧土人保護法」が制定され、『アイヌ民族:歴史と現在』には「この法律によって農業に従事しているか、従事しようとするアイヌ人たちに土地が与えられた。(中略)アイヌの人たちに与えられた土地ははるかに狭く荒れたものであった。」と記されている。 明治33年(1900)凧次郎53歳の時に、皇太子成婚を祝して子熊2頭の献上を願い出て、森村の医師村岡格を付添人として、東宮御所に出頭し、松の盆栽等の下賜を受ける。「御所の松」と命名された赤松と記念碑は現在落部八幡宮境内に所在する。 ![]() 明治35年(1902)凧次郎55歳の時に、函館要塞司令からの依頼を受けた村岡格の推薦に応じて、弁開凧次郎等9名が八甲田山における青森第五連隊の雪中行軍遭難事件の救護活動に参加する。 大正8年(1919)凧次郎72歳の時に、黒松内村来馬(現黒松内町大成)で死去する。 凧次郎没後の昭和52年(1977)年に、『チャランケ 結城庄司遺稿』に凧次郎の子孫に関して「三代目四代目として漁業を営み健在である」との記述がある。 また、昭和63年(1988)年には、黒松内町の産業功労者として表彰され、黒松内町大成地区に「弁開凧次郎終焉の地」の記念碑が建立される。記念碑建立除幕式の資料には「弁開翁は獣医の才能に恵まれ、「伯楽さん」と呼ばれる名獣医であり、薬草の達人でした。(中略)家畜業を営む農家のほとんどが弁開翁の世話になり、また、貧しいい農民からは治療代はいらないとしてお金を受け取らず、農民の感謝と尊敬を集めたと言われています。」と記されています。 ![]() ![]()
by dounan-museum
| 2017-09-24 01:00
| テーマ「道南のアイヌ」
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