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北斗市教育委員会の時田太一郎です。この9月から北斗市郷土資料館で勤務しております。よろしくお願いいたします。
松浦武四郎が現在の北斗市にあたるエリアを歩いたのは弘化2(1845)年・弘化3(1846)年・安政3(1856)年の3回です。松前から箱館に至る津軽海峡沿いの街道、七重浜周辺を追分(街道の分岐点のこと。現在も当地に「追分」の地名が遺ります)として大野を抜け蝦夷地へと至る街道、このふたつの道を主に辿り東へ西へ、そして北へとその旅路の歩を進めました。
その足跡は『蝦夷日誌』『東西蝦夷山川地理取調紀行』などにまとめられ今日辿ることができますが、驚くべきはその観察眼と旺盛な好奇心です。地名地勢や町村の規模、商家旅宿の数から馬継港湾といった交通機関、産物・名物からアイヌ語地名、習俗、巷説説話に至るまで、時には考察・提案も交えながらありとあらゆる情報をつぶさに拾遺しています。そこには、武四郎が歩いた当時のまち・むらのありさま、現在の北斗市の原風景が広がっています。 個人的に印象深いのは「食」に関する記述です。『渡島日誌』では当別のカジカ(ケムシカジカ、現在でも「トウベツカジカ」の名で呼ばれます)を「味噌汁によろし」とオススメし、さらに土地の旅宿が「カジカ汁」を売りにしていることもセットで紹介したり、『蝦夷日誌』では冨川(現:北斗市富川)の段で今も当市のマスコット「ずーしーほっきー」でおなじみの名物・ホッキ貝について「其(そ)の味到(いたって)よろし(意訳:めっちゃおいしい!)」と太鼓判を押したり、といったかんじで、現在の旅雑誌のグルメリポートさながらです。
そんな武四郎が歩き拾遺した北斗市内の地名とその位置について、現在の地形に重ね合わせたものが次の図になります。 ![]() その地名の多くは現在も遺っており、いまを暮らす我々にも非常に馴染み深いものです。しかし、これだけつぶさに拾遺された地名の中で、ひとつだけ、今日このエリアを指すに欠かせないほどのものでありながら、ここに存在しないものがあります。
それは、「上磯(かみいそ)」という地名です。 北斗市は平成18(2006)年に上磯町と大野町が合併し誕生しましたが、それまで明治以降100数十余年の間、その名はこの地に冠され続けていました。にもかかわらず、です。
この「かみいそ」はいったいどこから来たのか──その由来について、明治以降多くの研究者が頭を悩ませてきました。なにしろ武四郎に限らず、明治改元以前の文献・記録ではほぼまったく「かみいそ」の名前は出てこないのですから(私自身の話で言えば、現在のところ当たれた文献の範囲では見つけられていません)…かの永田方正も『北海道蝦夷語地名解』(明治24(1891)年)の中で「古(いにし)ヘ此(こ)ノ名ナシ 何ニ由(よ)リシカ知リ難(がた)シ」と嘆いています。 (なお、『角川地名大辞典』(昭和62年・角川書店)「上磯」の項に「地名は(中略)『蝦夷地名考幷里程記』(時田註…上原熊次郎勇次著のアイヌ語地名辞典、文政7(1824)年)ではカムイソ(神の岩の意)に由来するとある。」との記述がありますが、東京国立博物館所蔵の熊次郎自身の手になる自筆校本(同館のデジタルライブラリーで全文閲覧できます)では「上磯」の項あるいは「カムイソ=神の岩」との解(上磯に限らず)に関する記述のいずれも確認できず「江戸時代の熊次郎の解」としては疑わしいです。『蝦夷地名考幷里程記』は写本・類本が多く、その中には白野夏雲らによる明治期以降のものもありますので、それらにおいて加筆されている可能性があります)
そんな中、現在までに上がった説はおおまかにふたつに分けられます。
(1)アイヌ語地名説 当地をあらわすアイヌ語地名に拠るとする説。 解としては「カムイ・ソ(神のor巨大な・滝)」(B・H・チェンバレン『アイヌ語地名の命名法』(明治20(1887)年)、藤本慶祐『大日本地名辞書 続編』(明治42(1909)年)、J・バチェラー『アイヌ地名考』(大正14(1925)年)など)、「カマ・イソ(平たい・岩、波かぶり岩・平磯)」(高倉新一郎・知里真志保・更科源蔵・河野広道『北海道駅名の起源』(昭和29(1954)年)、更科源蔵『アイヌ語地名解』(昭和57(1982)年)など)、「カム・イソ(神の岩、磯部精一解。ただし「カム」では「かぶさる」か「肉」なので解に即した単語で分けるとするなら「カムイ・ソ」でしょうか)」(磯部精一『北海道地名解』大正7(1918)年、『角川地名大辞典』など)といったものがあります。 (2)日本語説 函館の上手(かみて)にあるから、あるいは函館山をはさんだ東側を「下海岸」というのに対比して西側にあたる当地を「上磯」と呼んだ、というもの。
このふたつの説、帯に短したすきに長しといいますか、どちらも決め手に欠けます。 アイヌ語地名説の場合、地名に即した地形あるいは地勢の特徴が残っているはずですが、当地にはそれに合致する滝や岩が見当たりません(そもそもそんなものがあったら武四郎が見逃さないでしょう)。日本語地名説の場合でも、昭和30(1955)年に茂別村と合併するまで「上磯の海岸」といえば西は富川から東は七重浜まで長く続く砂浜であり、「磯」に該当する地形が存在しないことに疑問が残ります。
この長く人々を悩ませた「かみいそ」の謎を探る大きな手掛かりは、実は武四郎にありました。 さきほど「武四郎は『かみいそ』という地名を拾遺していない」と書いておきながら、矛盾するように思われるかもしれません。確かに、「江戸時代の」武四郎は拾遺していませんでした。ヒントは、「明治時代の」武四郎にあったのです(しばし今回のテーマ「武四郎が見た江戸時代の道南」から脱線しますがご容赦ください。また最後には戻ってきますので)。 明治2(1869)年に著された『蝦夷地道名国名郡名之儀申上候書付』という文書があります。「蝦夷地」の名を改めるにあたり、武四郎がそのアイデアをまとめ開拓使に上程したもので、明治150年にあたる今年「『北海道』の名付け親」としての彼を語る上で大いにクローズアップされ、ご存知の方も多いかと思います。この中で彼は、「北加伊道」「海北道」などの道名候補だけではなく、渡島・桧山・胆振・日高といった国名(のちの支庁名、現在の振興局名)、そして亀田・茅部・爾志といった郡名についても、その具体的な範囲も添えて提案しています。 実は、おそらく文献記録上で最も古く「かみいそ」の名称が出てくるのが、この中にある「上磯郡」について提案した項ではないか、と私は現在の所考えています。それでは、その該当部分について書き出してみましょう。
「上礒郡 東矢不来境川ヨリ當別、三ツ石、釜谷、泉沢、札刈、木子内、知内村海岸福島蛇ヶ鼻ニテ界トス。但シ陸路山道一ノ渡川中ヲ以テ定、江差越山道峠之上、上ノ国村境ヲ以テ定。」(原文ママ)
この一文をみてピンと来られた方もいらっしゃるかもしれません。そう、武四郎の当初構想した「上磯郡」の範囲には、「のちに上磯村・上磯町となる範囲が含まれていない」のです(※昭和30(1955)年に上磯町と合併する旧・茂別村の範囲を除く)。 実際の範囲を見比べるために、「武四郎の構想した『上磯郡』の範囲(明治2(1869)年)」と「開拓使により設置された『上磯郡』の範囲(明治4(1871)年)」、そして後に「歴史上初めて『上磯村』となった範囲(明治12(1879)年、有川村・戸切地村の合併)」を、当時の他の郡名・位置と併せて地図上に示したのが次の図になります。
![]() 図2.「上磯郡」「上磯村」3者範囲比較図 (明治2年「蝦夷地道名国名郡名之儀申上候書付」松浦武四郎 明治22~29年ごろ『北海道測量舎五万分の一地図 渡島国』 大正7年「明治五年開拓使本庁管轄図」『北海道史 / 附録地図』 などを参考に作成)
武四郎の構想では、有川村・戸切地村や、その近隣に並ぶ中野村・清川村・三ツ谷村・三好村・富川村といった平野側の村々は全て亀田郡に属するはずでした。おそらくは、地勢や人口等の兼ね合いで、開拓使による検討の結果、上磯郡へと割り振られたのでしょう。明治12(1879)年、そして明治33(1900)年の一級町村制施行によりこれらの村々が残らず合併し「上磯村」を冠するようになるのは運命の不思議と言えるかもしれません。 そして、この不思議な「すれ違い」こそが、後の「かみいそ」の由来探しを困難なものにした原因と言えるでしょう。何しろ、皆が懸命に手がかりをさがす範囲には、名付け親であろう武四郎の見た「かみいそ」の風景は最初から存在しなかったのですから…。
では、武四郎の見た「かみいそ」の風景とはいったいどこにあるのでしょうか。そのヒントは、武四郎が「上磯郡」の東界とした「矢不来境川」にあります。 矢不来から西、津軽海峡沿いに茂辺地・当別・三ツ石さらには木古内に至る海岸は、標高差30mを越す段丘が東西約20kmに渡って続きます。今でこそ国道228号線が海沿いの浜辺を走りますが、かつての陸路(街道)は海間際で鋭く反りたつ段丘崖に阻まれ、一度段丘上に上がって平坦部を進み、村のある開析地に至って下りまた段丘を登り…というルートを進まざるを得ませんでした。『蝦夷日誌』で武四郎は当別から茂辺地に至る行程について「坂道上りて平野也。凡十七・八丁四方の平野。…しばし行、九折(つづらおり)を下りて(茂辺地村に至る)」と記しています。 一方、村から村へ海路を伝うルートもありました(武四郎は安政3年の踏査ではこの付近を海路で通過しています)が、その際に広がるのは「右は箱館湾に、左数十丈の岸壁也」(『蝦夷日誌』、当別~茂辺地間)という風景でした。当別では「此村の前、皆岩の平磯也」と書き記しています(ちなみに、『渡島日誌』『蝦夷日誌』においては、武四郎構想の「上磯郡」の範囲内で本文中に「磯」の表現があらわれるのはここだけになります)。船上から、あるいは段丘の上から遠く眺める、こうした段丘崖と磯の連なる海岸の風景が、後の「上(の)磯」という名の着想へとつながっていったのではないのでしょうか。
現在、当時武四郎が通った北斗市南岸には、津軽海峡に沿って海岸道路・函館江差道・いさりび鉄道・新幹線など数々の「道」が人々を通す動脈として息づいています。もし今度、皆さまが何らかのかたちでそこを通る機会がありましたら、武四郎が想った「上の磯」、そして彼の辿った旅路について、しばし思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。 (追記:「上磯」の「上」について) 武四郎は、先に挙げた『蝦夷地道名国名郡名之儀申上候書付』のうち「郡名之儀ニ付奉申上候條」の中で、郡名は国内の過去の例に照らして二文字にするのがよい、と提案しています。その例として、大和(奈良県)の磯城郡(しきぐん。三輪山山麓に位置し、記紀において崇神天皇の王統が纏向(まきむく)と並び宮を構えたと伝えられており、「邪馬台国」候補地の一つでもあります)の上下を「磯上郡」「磯下郡」と分けたことを挙げており、あるいはこの「磯上」が「上磯」着想のヒントのひとつになっている可能性についても、蛇足ながら触れておきます。
by dounan-museum
| 2018-09-26 00:00
| テーマ「松浦武四郎が見た江戸時代の道南」
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