市立函館博物館の奥野です。
今回は武四郎が記した「箱館(函館)」の名前の由来について、考えてみたいと思います。
「渡島日誌」のなかには、次の記載があります。
箱館は渡島の東南にして、奥の南部北郡田名部の対にして、往昔は陸を離れること纔(わずか)にして一ツの島周囲凡二里なりしが、往古数度其嶺燋出し時陸つゞきとはなりぬ。其山の形象亀の象なるより、イチンゲ(アイヌ語でカメのこと)と云いしと。是蠵亀(うみがめ)のこと也。其後は一ツの湾となりて、諸国の通船も爰(ここ)に錨を卸して有るに於て、土人爰を号(なづけ)てヲシヨロケシ懐の端の義と云。是奥深く懐の如き処の端の義。後訛てウシヨロケシと云。また詰てウスケシと云しが、享録年間河野加賀右衛門土人の云には加賀守と云此山趾に塁を築て東西三十五間(=約63.6m)南北二十八間(=約50.9m)是を七居浜より望むに、其形ち箱の如き故に、土人是を号て箱館と云しより、後何時となく地名となりぬ。
要は、箱館は昔は独立した島で、後に陸続きとなったこと。(こちらについては「ひょっこり函館山?? ―『縄文海進』を知る」で触れました)
海に浮かぶ函館山の形からアイヌ語で「イチンゲ=カメ」と称されていたいこと。
その後、陸続きになり、函館湾が形成された後に、「ヲシヨロケシ」(=湾の端)と称され、「ウシヨロケシ」「ウスケシ」と転化していったこと。
「河野加賀守」により館(やかた)が築かれ、七重浜(現在の北斗市)から見た姿から「箱形」に見えたので「箱館」(1868年[明治2]から表記は「函館」とされた)と言われるようになった、ということが記されています。
これは一般的な函館の地名の由来として、現在も用いられている説明とほぼ一致します。
一方、箱館の地名の由来には、アイヌ語のハクチャシ(=浅い砦)からきたとする説、河野氏が館を築いたとき、土中から筐筥(竹かご)が出てきたことに由来するとする説など、違う見解もあります。
これについては、函館市史編さん室の元室長紺野哲也氏の講演記録「図書裡会歴史講座より 函館の歴史」に具体的に関係部分を抜粋した、大変詳しい資料があげられていますので、参考になります。
因みに上記サイトにもあげられているのですが、函館の歴史研究の先駆者であり、函館図書館の郷土資料収集に尽力した岡田健蔵は次のような見解を述べています。
其地名「箱館」を以て称されしは永正9(1512)年「宇須岸」館主河野一族の滅亡せし以後の事なるべく、其起源を河野一族の居館を七重浜より望めば其状箱に似たるが故に箱館と名くとあれど信じ難し、又「蝦夷実地検考録」に河野氏築館の際に土中より鉄器を容れたる箱を発掘せる為め箱館と云ふとあれど之又信を置くにたらず、往時の箱館は蝦夷人の移住地にして現今の水元沢を相生町に下る一線より以南谷地頭方面一帯は其根拠地なるべく、現に青柳町、蜊坂、公園裏等の貝塚及び公園、谷地頭住吉町尻沢辺等に亘る石器時代遺物包含層のあるに依って明らかなり、然も其中央に当たる蝦夷館は当時蝦夷人が外敵に抗したる所にして蝦夷語の「シャチ」(原文のママ)なるは古き図絵に記されたり、即ち此「チャシ」は其構造出城浅砦の類なるが為地方地帯に乏しく、隨て蝦夷語の「ハクチャシ」と称する類なり、此「ハクチャシ」の転訛して「ハコタテ」となれると云ふ説最も信するに足りるべし、「蝦夷語地名解」の著者永田方正は記して函館の原名「ハクチャシ」浅砦小館の義なり、とありて河野氏居館の形状に拠るの説は一説として載せたるに過ぎず、以其起源を知るべきなり(「函館の旧名及び地名の意義」概説(大正15(1926)年7月16日付)
岡田は永田方正の著書を引用しつつ、河野氏の館が七重浜から見た時に箱形に見えたという説と、河野氏が館を築いたときに土中からカゴが出てきたためとする説を明確に否定し、ハクチャシ説を強く支持しています。
どれが正しいのか、結論を出すことは難しいところです。
この箱館の名前の由来に関係して、当時大学を出たばかりの私が配属先の函館市史編さん室で経験したエピソードを思い出します。現在では「定説?」となっている、河野氏の館=箱形に見えたという説を解説する際に、利用される絵図について話です。
河野加賀守政季築城館趾之略図(「函館沿革史」福岡竹次郎・佐藤慶吉 1899年)
本文で「政季築営の館にして同採図は幕府奉行所開設以前に係かるものなり」とされています。絵に付記された内容を見ると、堀や土塁の一部、植栽等が残っていたとの記載もあり、この図の元となったさらに古い絵図があったのかもしれません。
絵として「箱形の館=箱館」が描かれた資料が他にないため、視覚的な資料としてよく利用される資料です。しかし、1899年(明治32)発行の「函館沿革史」に収録された絵であることを考慮すると、河野氏が館を築いたとされる1445年(文安2)から数えて、450年以上も経ってから描かれた絵、ということになります。先行した絵図があったとしても、現状では数百年も遡るとは考えられません。
さきの武四郎の記述にしても、400年を経た後に伝えられていた伝聞ということになりますので、果たして、武四郎が箱館を訪れた時、400年前のことが、どれだけ正確に伝わっていたのか。
現在、博物館に籍を置いていますので、箱館の名前の由来を説明する際には、一目でわかる河野館の絵図や武四郎の記載などに依拠することになりますが、解説文をつける際には、一文、添える必要がありそうです。