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![]() 韓国戦後写実画壇の重鎮だった孫一峰(1906-1985)は、1938年春から1946年1月31日までのおおよそ8年間、北海道の南端にある都市・函館で教鞭をとった。さかのぼること9年、孫一峰は1929年4月5日に東京美術学校西洋画科本科に入学している。官設展である帝展には京城師範学校在学中の1927年から連続入選を続け、東京で生活するようになってからは、さらに写実絵画の団体「光風会(こうふうかい)」でも入選を重ね、受賞も経験し、順調に東京での画家としての地位を築いていたさなか、突然、函館の高等女学校に就職したのだった。その理由は、弟を探すためだったという。長兄に当たる孫一峰を訪ねて当時の朝鮮から東京に到着した弟が、孫一峰に巡り合う前に徴用されてしまい、どうやら北海道の夕張の炭鉱にいるらしいということが分かったため、弟の捜索のために北海道に就職するに至ったと、末娘の孫道子氏によって、明かされている。 北海道の中でも、なぜ函館という都市、そして大谷(おおたに)高等女学校に赴任したのかは明確ではない。ただ、孫一峰先生の前任の大谷高等女学校の美術教師は、やはり東京美術学校出身(1927年入学、和田英作【わだえいさく】教室、1931年卒業)である木村捷司(きむら・しょうじ)であり、木村は画家としての活動に専念するために1938年に教職を去っている。木村が教職を去るに当たり、後任教師の採用について、木村の出身校である東京美術学校に、照会がなされた可能性は十分考えられる。その情報を得た孫一峰が、大谷高等女学校の募集に応じたということが、ひとつの可能性として考えられるのではないだろうか。孫一峰の必死の捜索により、弟は徴用から解放され、韓国に戻ったが、孫一峰はそのまま、函館の大谷高等女学校で教鞭をとる道を選んだ。 ここで、函館大谷高等女学校について簡単に紹介したい。1888年に函館の「六和女学校(ろくわじょがっこう)」として創立され、1901年に「函館大谷女学校」となっている。函館では、すでに1882年と1886年にキリスト教系の女学校が先行して設立されていたが、六和女学校は、京都を本拠地とする仏教寺院・東本願寺(ひがしほんがんじ)が設立した学校であり、仏教の教えを教育の柱としながら、良妻賢母を育てることをめざした女学校だった。当初、港に近い元町に設立されたが、1921年の函館大火で校舎が焼失したため、1923年に函館市千代岱(ちよがたい)町(現在の千代台町 ちよがだいちょう)に新しい校舎を落成し、1984 年に現在地(函館市鍛冶 はこだてしかじ)に移転するまで、ここに校舎があった。当時は、周りは一面の野原だったという。現在は宗教団体である創価学会(そうかがっかい)の「平和会館」という建物がある。 ![]()
![]() 孫一峰は大谷高等女学校では、美術の教師として学科を教えるとともに、美術部の指導もした。1939年3月に発行された卒業アルバムの美術部の写真(冒頭写真)に孫一峰と教え子の姿を見ることができる。前年の1938年春に赴任した孫一峰が、大谷高等女学校で初めて送り出した美術部卒業生ということになる。もう一枚は、1940年3月の卒業生の美術部写真。大谷高等女学校は、建物の建て替えや移転などを繰り返す中で、古い資料をかなり失っており、現在、孫一峰にかかわる資料として、大谷高校で確認できた卒業アルバムはこの2冊だけだった。 ![]()
スキーをする孫一峰の写真(向かって左端)。 ![]() 背景の山は、羊蹄山(ようていざん)。現在では中国やオーストラリアからの投資により、日本でも有数のスキーリゾートだ。この写真と関連する作品《雲海》(1938-46年 水彩・紙40.1×55㎝ 個人蔵)が、生誕110周年記念孫一峰展(慶州芸術の殿堂)の図録に掲載されている。 ![]() ![]() 駒ケ岳(こまがたけ)を描く 函館大谷高女の遠足の行き先の定番のひとつが、大沼公園(おおぬまこうえん)。駒ケ岳は、本来は、円錐形の火山だったが、噴火によって山頂が吹き飛び、現在のような山の形になったことが知られている。この山も孫一峰が描いた。《風景》(1938-46 パステル・紙 29.5×38.5㎝ 個人蔵) ![]() ![]() 写真で見る山の形とはとがっている部分が反対側に描かれている。大沼とは反対側から眺めた駒ケ岳だろうと推測される。。画面には座って何かしている女学生らしき姿が見える。孫一峰の同僚であった渡辺浩雄(わたなべこうゆう)の回想によると、孫一峰は美術部の生徒を引率してスケッチ旅行にたびたび出かけたとのことだ。「私は主に体育運動方面のクラブ活動を指導していましたが、時には先生に誘われて夏休み中の宿泊(合宿)写生旅行などに一両ほど飛び入り参加したことがありました。(中略)今でも大沼・当別(とうべつ)・茂辺地(もへじ)などの思い出も眼中に去来しています。」
五稜郭公園(ごりょうかくこうえん)を描く 孫一峰が函館在住中に描いた作品の中で、もう一か所、場所が特定できそうなところがある。五稜郭は、江戸時代末期に日本で初めての西洋式要塞として設計された。現在は、桜の名所として知られているが、正にその桜の季節の五稜郭を描いたと思われる孫一峰の作品をご覧いただきたい。《桜花》(1938-46年 パステル・紙 18.5×26.5㎝ 個人蔵)![]() ![]() こちらの絵の左上の松は、土手の上に植えられています。そして右方向にある濠に向ってななめに下がっていく斜面に、桜の木が植えられています。孫一峰の住まいがあった梁川町88番地からは、徒歩で10分足らずだろうか。桜の盛りの時期の五稜郭を描きにきていたのだろう。このほかにも、函館周辺の風景を描いたと思われる水彩画が、生誕110年の図録に掲載されているが、場所を同定するには至っていない。今後も調査を続けていきたいと思う。 教え子を描く 最後に、孫一峰先生が大谷高等女学校の教え子を描いた作品を紹介したい。生誕110年記念展の図録には、《編み物をする少女》(1938-46年 水彩・紙 28.8×25.0㎝ 個人蔵)が出品されていた。 ![]() 身につけている制服は、セーラー服で、先にご覧いただいた卒業アルバムで少女たちが着ている制服と同じだ。大谷高等女学校の教え子を描いた作品と考えられる。もう一点、今年、函館市内で発見された《少女(仮題)》(1938-46年 水彩・紙 28.0×23.0㎝ 個人蔵)をご紹介したい。 ![]() セーラー服を着用して椅子に腰掛けている少女像だが、孫道子女史にお聞きしたところ、この作品は、長い間、孫一峰のアトリエにかけられていたという。しかし、孫一峰没後、幹子(みきこ)夫人が、函館大谷高等女学校の元美術部員12名に1点ずつ孫一峰の作品を贈呈したいというお考えを持たれ、このセーラー服の少女像を含めて函館に持参された。その際、集まった元部員の中に船曳みつ子(ふなびきみつこ)さんがいた。その場で、船曳さんは、この絵は自分がモデルだという事を名乗り出られ、それ以後、船曳さんがずっと手元においておかれ、船曳さんが亡くなられてからは、お嬢さんが大事に保管されてきた。この少女像こそ、渡辺浩雄が「孫一峰先生とその絵」という文章のなかでとりあげられた「その絵」にあたる。この作品が船曳さんのお嬢さんのお手元に現存する事が何故わかったかということだが、韓国の研究者の方から、「孫一峰の函館での足跡についてわかる事がないだろうか」とのといあわせがあり、『北海道新聞』に、孫一峰の函館での活動にかかわる文章を書かせていただいたところ、北海道新聞社に、記事を読んだという女性の方から電話が入り、「孫一峰先生が描いた女学生の絵をもっています。モデルは私の母です」とのことが伝えられた。こうして、孫一峰が1930年代から40年代にかけて函館で描き、その後モデルの女学生のもとへと戻った絵が、いまも函館市内で大切に保管されているということがわかった。 今年の5月、函館大谷高等学校で開学130周年の記念式典があり、そこに、孫道子女史と女史のご長男が出席され、函館大谷高等学校の校長先生、そして絵のモデルの船曳みつ子さんのお嬢さんが、孫一峰の絵を前に、出会いを果たした。 ![]() 渡辺浩雄は「孫一峰先生とその絵」の中で、1946年の孫一峰ご家族の函館から慶州への旅について、こう記している。「家財道具を詰めた重い荷物が五個。あまりの重量なので私が先生に向かって、二~三個放棄して出発されたら如何ですかと申し上げたら、先生申されるには『一個は背中に綱で縛りかつぎ、一個はその上に載せ、両手に一個ずつ持ち、一個は口にくわえて、船・列車の乗り換えをするから大丈夫』とのご返事でした。」函館港から青森港へ、そこから列車に乗り換えて、下関まで、そして下関で列車から関釜連絡船に乗り換え。さらに釜山から列車に乗り換え、慶州まで。いかに孫一峰が柔道で鍛えていたとはいえ、重い五個の荷物を一人で抱え、妻と、幼い子供3人とともに、韓国に帰った苦労を思うと、言葉が見つからない。しかしそうした苦労をして絵画を含めた函館での荷物を持ち帰ったからこそ、いま、慶州と、函館、この二つの都市のあいだに、孫一峰を媒介とする、縁が明らかになったということになる。孫一峰が重い荷物を放棄して帰ってしまっていたら、函館での画家・孫一峰の足跡は、だれ一人知る由もないものとなってしまったかもしれない。 孫一峰とその教え子の美しいエピソードをしるすことができることを、喜ぶ次第である。
by dounan-museum
| 2018-11-24 06:32
| コラムリレー
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