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松前町郷土資料館の佐藤です。 今回ご紹介するのは、松前にゆかりのある公家「花山院忠長」です。 忠長は、天正16年(1588)大納言花山院定凞の二男として生まれました。花山院家は清華家(公家では最上位の摂家に次ぐ地位)で、忠長もエリートコースを歩みます。 ところが、慶長14年(1609)7月、後陽成天皇につかえる女官たちと青年公家たちの不義密通が発覚し、中心人物であった猪熊教利と、事件の手引きをしていた兼安頼継は斬首となりました。そして、これに加担していた花山院忠長を含む、青年公家5名・女官5名が各地へ流罪、青年公家2名が蟄居(自宅謹慎)となります。 『福山秘府』年暦部巻之三によると、忠長は慶長14年11月10日に流刑先の蝦夷地へ出発し、慶長15年(1610)3月に到着、初めは上ノ国「花沢館」に滞在していたとされます(これは花沢館ではなく勝山館との説があります)。その後、初代藩主松前慶廣によって城下の萬福寺に迎え入れられ、松前家の厚遇を得ることになります。この背景には、忠長の姉であり徳川家康の側室でもあった一之臺が、慶廣に対して弟(忠長)を助けてくれるよう依頼した可能性が考えられます。 忠長が滞在した萬福寺の跡地(北海道松前町) こうして忠長を厚遇したことで、松前家には公家とのパイプが生まれ、中には公家から奥方を娶る藩主もありました。 第3代藩主(松前家7世)公廣 ― 大炊御門大納言資賢の娘 第6代藩主(松前家10世)矩廣 ― 唐橋侍従在庸の娘 第7代藩主(松前家11世)邦廣 ― 高野三位保光の娘 第8代藩主(松前家12世)資廣 ― 八条中納言隆英の娘 第9代藩主(松前家13世)道廣 ― 花山院右大臣常雅の娘 また、輿入れについて来た侍女らが松前家の家臣と結婚したことで、市井に京文化が広まったとされます。
さて、慶長19年(1614)5月、忠長は罪一等を減ぜられて津軽に配流替えとなります。『津軽旧記類』によれば、初めに黒石(青森県黒石市)、次に高屋(青森県弘前市《旧岩木町》)、そして弘前(青森県弘前市)と移り住んだとされますが、この間の詳細は不明です。しかし、津軽では「カサンノインサマ」と親しまれ、黒石を中心に様々な伝承や、ゆかりの土地が残されており、忠長が津軽地方に与えた影響・足跡が偲ばれます。 忠長が茶の湯に使った井戸水と伝わる(青森県黒石市) 鏡ヶ池(南溜池):忠長が水面に映る岩木山の絶景を「池にうつる 岩木を富士の姿にて 眺めては庭の 三保の松原」と詠んだことから、鏡ヶ池と呼ぶようになったと伝わる(青森県弘前市) 忠長の配流生活は26年にも及び、寛永13年(1636)7月に至ってようやく赦免となりました。その後、京へ戻り、寛文2年(1662)に亡くなります。
忠長の直筆短冊(松前町郷土資料館所蔵) いにしえの 道とはみえて ふるさとの 蓬が中の 草はえし垣 (旅の途中で、荒廃した古い土地に立ち寄った。あばら屋となった屋敷の廊下は、あたかも大昔に使われていた古道かと思われるほどに雑草が生い茂っている) 享年74歳、当時にしてみれば長寿といえるかもしれませんが、罪を犯して人生の3分の1が北国での配流生活となった彼の想いは、いかばかりであったでしょう。
by dounan-museum
| 2019-09-23 00:00
| コラムリレー
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