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はじめまして。ピリカ旧石器文化館の矢原史希です。 今金町東部に位置する花石(はないし)の瑪瑙(めのう)と言えば石マニアの間では非常に有名であり、一時は日本で出回る瑪瑙のほとんどを占めていたと言われています。今回は、そんな花石瑪瑙の歴史についてお話しします。 さて、今金町の瑪瑙の歴史ですが、この地域の瑪瑙に関する記述が最初に登場するのは安政4年(1857年)の松浦武四郎による『報登宇志辺津日誌』です。現在の長万部町国縫から川を遡ったバンケベタヌ川に瑪瑙が存在することが記載されており、該当の場所は現在の茶屋川上流~中流域の支流パンケイ川付近と考えられます。 その後しばらく記録は途絶え、次に記録に残るのは明治12年(1879年)のことでした。現在のせたな町近辺で幕末に漁師として活躍した大島勘左衛門(おおしまかんざえもん)が後志利別川の上流付近で瑪瑙とマンガンを発見した報告を上げており、これを受けた函館支庁による周辺の地質調査が実施されました。その結果、甚五平沢(チンコベ川・現在の花石周辺)で瑪瑙が最も広く分布していることが明らかになります。 翌年、大島は数人の仲間と花石周辺で試掘して瑪瑙とマンガンを掘り出し、明治14年の内国勧業博覧会に出品しました。同年、東京に瑪瑙とマンガンを送り元松前藩重鎮の下國東七郎(しものくにとうしちろう)と共に販売ルートの構築を計画しましたが、品質が悪く事業は失敗に終わっています。その後も何度か鉱産物の試掘を行うもののいずれも成功せず、大島は明治19年頃にこの地域から手を引いたと言われています。 事業失敗の原因は様々なものが考えられますが、この頃はまだ太平洋側の国縫と日本海側の瀬棚を結ぶ道路が開通していませんでした。そのため、交通の便が著しく悪かったことが一因と思われます。一方で、当時は町内の最後の砂金採掘ラッシュが始まる頃でもありました。砂金採取地選定のため実施された地質調査の副産物として見つかる各種鉱産物が徐々に評価された時期であり、地質学者の神保小虎(じんぼうことら)は明治22年の『北海道地質略論』の中で花石瑪瑙について名声とは裏腹に採掘がなされていないと述べています。その後、明治26年に東條九郎太が入植して国縫・美利河間の道路開削に着手すると交通の便が大幅に向上し、翌年には福田重平によるマンガン採掘が開始され後志利別川上流域の鉱山開発への期待が大きく高まります。 同時期、古くから瑪瑙産業の盛んな福井県の遠敷(おにゅう)村では市場の衰退を食い止めるため瑪瑙職人たちが奔走しており、村長小林佐左衛門(こばやしさざえもん)主導の下で組合を結成して盛んに作品を勧業博覧会に出品し、その名声を高めていました。一方で、当時の原料は県内産や新潟県産が中心でしたが枯渇が危惧されており、新たな原石の輸入元を確保する必要に迫られていました。このような背景からか、明治20年代にはたびたび福井県の人間が花石瑪瑙の試掘に関わっていたようです。 そして明治35年から始まった官有林内の花石瑪瑙の払い下げにより、本格的に福井県輸出向けの瑪瑙採掘が開始されます。瑪瑙はそのほとんどが福井県に送られ、質の良さと価格の安さから瞬く間に県内の瑪瑙細工用原料の大部分を占めるようになりました。また、瑪瑙を加工する際に焼き入れという発色処理が行われていましたが、従来産地のものでは加熱に必要な期間が1~2年ほどであったのに対し花石産の原石では僅か半月ほどで済んでしまうことも花石産原石が求められた理由の一つです。 このようにして安価で良質な原産地を確保した福井県の瑪瑙産業は市場を席捲し、細工品だけでなく発色処理をした花石産原石を他の瑪瑙細工産地に輸出する流れが生まれました。その詳しい流通量は不明ですが、明治末から大正年間にかけて花石瑪瑙が国産瑪瑙として流通するものの大部分を占めるようになったと考えられます。この流れは昭和の初頭頃まで続きましたが、太平洋戦争前後を境に採掘量の減少や安価な海外産瑪瑙の流通によって花石産原石の利用は減少し、昭和の末期には福井県内で利用されるうちの20%程度にまで縮小します。 今金町内では、採掘の最盛期にごく一部の原石が手作業で加工され販売されるのみでしたが、1986年に花石に機械設備と専門の職人を備えた地域特産品生産センターが開業し集中的な瑪瑙加工が行われます。2006年に閉鎖となり花石瑪瑙はその歴史に幕を下ろしますが、今でも町中の庭石や記念碑の土台として目にすることができ、かつての産業の名残を感じることができます。
by dounan-museum
| 2023-02-18 19:39
| コラムリレー
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