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はじめまして、福島町教育委員会の鈴木です。 北海道福島町といえば、千代の山・千代の富士という二人の大横綱を生んだ「横綱の里」としての印象を強く持たれている方が多いと思いますが、今回はほとんど知られていない福島町出身の昭和のプロ選手・藤野文三郎さんをご紹介いたします。 藤野さんは、大正6年吉岡村(現福島町)生まれ。 幼少から地元学校の野球チームで活躍しており、昭和6年開催の北海タイムス社主催の全道少年野球大会函館地区予選や、函館新聞社主催の少年野球大会に、投手として出場していました。 吉岡小学校開校百周年記念をみると、この大会で捕手をつとめた村田恭三さんが当時の思い出を振り返っていました。初めてチームのユニフォームを作り、傷んだグローブを胸に抱き、試合に挑んだこと、地元の応援団を乗せた発動機船が何艘も出るなど、大いに盛り上がった様子もうかがえます。大正から昭和にかけては全国的に少年野球が盛んに行われていました。吉岡村も例外なく野球熱を膨らませていたようです。 ところで、福島町で発動機船が現れはじめたのは大正末期~昭和初期のことです。これは、ちょうど藤野さんが大会に出場していた時期とも合致しています。発動機船は、改良型川崎船に代わって普及したイカ釣り等に利用した船で、実際吉岡小学校の野球チームとその応援団も地元漁師の所持する発動機船で函館市に赴いたようです。 また、発動機船の普及により各地の漁港船入澗の改修が進んだのもこの時期です。藤野さんの学校の近くにある吉岡村船入澗は、昭和5年9月には改修が完了した道南で最も早い時期に整備された船入澗のひとつです。記録には、吉岡小学校の野球チームがどの港を利用したかまで記載がありませんでしたが、改修されたばかりの真新しい吉岡村船入澗から関係者に見守られながら華々しく出発したのではないでしょうか。 その後は、函館商業学校に進学。全国中等学校野球大会の北海道大会準決勝で、時の名投手ヴィクトル・スタルヒンと投げ合うなど、投手として健闘しました。この試合は惜しくも敗れましたが、その戦いぶりがプロの目に留まったのか、昭和12年に「後楽園イーグルス」という新設のプロ野球チーム(のちの大和軍)に入団し、その年は23登板51奪三振という結果を残しました。 しかし、藤野さんは、翌昭和13年1月のシーズン開幕直前に徴兵され、たった1年で球場を離れることとなってしまいます。新設の野球チームで「まだまだこれからが本番」という時期に、どんな想いで戦場に向かったのでしょうか。戦いを終えた藤野さんは無事帰国を果たしましたが、日本のプロ野球界に戻ることはありませんでした。 令和3年4月、東京都にある野球殿堂博物館の「鎮魂の碑」に藤野さんの名前が刻まれました。「鎮魂の碑」では、日本プロ野球草創期にその青春を燃やし、プロ野球の礎を築き、戦争に散華していった選手たちの名前が記されています。みなさんも、機会がありましたら是非お立ち寄り下さい。 【参考】 1975 『創立百周年記念誌』吉岡小学校開校百周年記念事業協賛会記念編集部 編 1997 『福島町史』第3巻通説編下巻 福島町史編集室 編
by dounan-museum
| 2023-03-19 23:37
| コラムリレー
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