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北斗市郷土資料館で学芸員を務めている時田と申します。今回はよろしくお願い致します。
みなさんは、「相原周防守」という人物をご存知でしょうか。
寛永20年(1643年)編纂の『新羅之記録』によれば、15世紀・室町時代に安東氏一党の一員として渡道した武将の一人で、渡道後の事績としては「松前に拠を構え下国定季を補佐」「コシャマインの戦いにおいて敗戦し居館を失陥」との記述がある程度。生没年、そしてその細かな素性のいずれも定かではありません。 ところが江戸時代後半・19世紀以降になるとなぜかその名は異常なほどに高まり、その事績は子である彦三郎季胤のものとも混同され習合し修飾が加えられ、さらには各地に彼に因んだ説話や史跡が数えきれないほど「創設」されるに至り、ついには渡島半島東部一帯を領した「松前氏のライバル」「悲劇の主人公」として一躍伝説上の英雄へと祭り上げられることになります(その「伝説」に係る顕彰の代表的な例として、七飯町・大沼に明治36年に建立された「相原周防守政胤の碑」が挙げられます)。
今回は、この「相原周防守」伝説はいつどのようにあらわれ、どのように変遷し、今日のような英雄譚としてまとめられていったのかを、渡島・道南に係る史料群の精査から析出された情報を元に探ってみたいと思います。
1.史実上の「相原周防守」 今日「相原周防守」の史上の事績を示すものとしては、先に上げた『新羅之記録』が最古にして唯一のものになります。『新羅之記録』そのものがその成立に係り取り扱いに注意を要する性格の資料となりますが、まずは当時の「まじりっけなし」の「相原周防守」情報を書き出してみましょう。
相原周防守がその名を史上にあらわすのは享徳3(1454)年のことです。東北・十三湊に拠を構える安東氏は、かつて狄之嶋(北海道)・秋田まで勢力を伸ばすほどの勢力を誇っていましたが、当時はすでにその権勢は衰えていました。下北半島・田名部にて家督を継いだ当時の当主・政季は、近隣の諸将を「計を以て略」し彼らとともに敵対する南部氏から逃れ、父祖・盛季(政季にとっては大伯父にあたります)の築いた基盤の残る北海道へと渡ります。この時政季の「略」に乗り同行したメンバーの中に武田(後の蠣崎)若狭守信廣・河野加賀右衛門尉政通、そして相原周防守政胤がいました。
その後政胤は下国定季(続柄は不詳ですが、政季の伯父にあたるという説があります)とともに道南十二館のひとつ松前・大館に拠を置きます(なお、渡道を主導した政季自身は定季・茂別館館主下国家政・花沢館主蛎崎季繁らを「守護」として北海道に残し、父祖の遺したもうひとつの旧領である秋田へと渡りそのまま檜山安東家=後の秋田家の祖となりました)。
しかし長禄元(1457)年、コシャマインの戦いが勃発。この時、大館もアイヌ民族の攻撃を受け陥落しています。この戦いは蛎崎季繁とともに上ノ国・花沢館を堅守していた信廣(この頃彼は季繁の養子となり蠣崎姓に改めていました)が総大将・コシャマインを射殺したことにより決着(この功績を端緒として、蠣崎家は道内和人勢力での発言権を増し、後の松前家へとつながることになります)しますが、以降政胤=相原周防守はその最期はおろか没年すら不明なまま史書上から姿を消します。
時は流れ約40年後の明応3(1495)年、大館館主・下国定季が64歳でこの世を去りますが、後を継いだ息子・山城守恒季が暴政を布きます。これを問題視する諸士の訴えにより討手を向けられ、明応5(1497)年、恒季は自害。彼に代わって松前の守護職に就いたのが政胤の息子である彦三郎季胤でした。この季胤も史書上の事績は乏しく、この後永正10(1513)年6月、アイヌ民族の攻撃により松前の大館が陥落する中で副将の村上政義とともに自害したことが短く語られるのが、その唯一の記録となります。
2.「周防守」伝説の芽生え? ~謎の人物「下国周防守」~
このように、相原政胤・そして息子の季胤は15世紀の和人の渡道及び本格的な居住基盤の整備時期においてその一翼を担うものではあったものの、決して目立つ活躍をした存在ではありません。それがなぜ後世においてあれほどの声望を以て祀り上げられることとなったのか…それを、史書を精査して情報を析出し、「相原周防守」像がいかにしてつくりあげられていくかを古い時代から順に追う事で辿っていくこととしましょう。
まず『新羅之記録』以降、「相原周防守」に係るであろう情報が初めて現れるのは『新羅~』執筆の約70年後、享保2(1717)年に江戸幕府の奥羽松前巡見使・高城孫四郎の供によって記された『陸奥出羽並松前蝦夷巡見記並名所旧跡陸海道法り細見』になります。同書では有河(現在の北斗市中央)~焼澤(現在の北斗市矢不来)の間に「下国周防守籠城跡アリ」と記していますが、興味深いのはこの「下国周防守」という記述です。というのも、松前氏ならびに下国氏の家系を記した文献、例えば『松前下国氏大系図』などには「周防守」を名乗った下国氏の名は見えないからです(なお余談ですが、この下国氏旧居館跡はおそらく道南十二館のうち茂別館に該当すると思われますが、その位置は現在呼ぶところの「矢不来館」を指しているのは興味深いといえるでしょう)。
この次に「周防守」が史書上に出てくるのはさらに44年後の宝暦11(1761)年に奥羽巡見使・榊原右兵衛の共役・宮川直之によって著された『奥羽松前巡検日記』になりますが、その中の記述は「下国周防守古館跡、松前氏家司ノ由」とあります。つまり、この時点での「周防守」は松前家の家司=家老格たる下国氏の祖を指すものであり、どうやら「『相原』周防守」を指してはいない…ということがわかります。しかし先述の通り下国氏に「周防守」は存在しません。
まとめると、 ・この時点では「渡島半島東部領主」としての「相原周防守」像は存在しない ・松前氏家司の祖としての「下国周防守」が現在の北斗市周辺を領していたという巷説はあった といったあたりでしょうか。
とすると、あるいは伝承として残っていた「相原周防守」について、そして「下国氏旧居館」についての断片的な情報が結びついて、この時期のこのエリアでは虚構の人物として「下国周防守」がかたちづくられていたのかもしれません。場合によっては、後の「虚構の英雄・相原周防守」のプロトタイプともいえる存在であった可能性もあるのではないでしょうか。
3.「福山城主」、そして「蠣崎氏のライバル」としての「相原周防守」像の萌芽
先に挙げた幕府巡検使の拾遺した「下国周防守」の情報は、いずれも渡島半島東部…現在の北斗市内において拾遺されたものでした。では、本来相原氏が居館としていた大館のある松前側ではどのように伝わっていたのでしょうか。
それを今に伝えるのは、かの菅江真澄が1792(寛政4)年に著した紀行文『ちしまのいそ』の中の一文です。松前福山にしばし滞在した真澄は、近隣を探索し遠与辺(及部、現在の松前町神明)に差し掛かった際に以下のような情報を得ます。「どうけ沢の卯辰(東北東)にあたり周防堂といふあり。周防殿にや、むかし相原周防守とかや住給ふてける。ふる館のあと見えたり。」要約すると、「この辺りには周防堂と呼ばれ、相原周防守が居館としたことに由来してその名があり、古城のあとが確認できる」ということになります。
これは、この15年後である文化4(1807)年に江戸幕府の蝦夷地上知を機に北方警衛を分担任命され、その任地下見のため渡道した仙台藩士・塩隆好による『奥北地理分見略記』での地元古老からの聞取においても同様です。曰く、 「嘉吉三年…(※蛎崎氏は)上ノ国ト云所ニ居城ス、然ハアレト其時ニ当リテ此地ニ下国何某、又福国ノ庄相原周防守ナトノ六種雄ノ徒アリテ蛎崎家ニ冠ス。相原ハ福山(今ノ松前ノ城ナリ)居城シ下国ハ福山ヨリ十里余東方下ノ国ト云所ニ櫓籠ル…」 とあり、この中でも当時の歴史認識における各氏の領分を見ると相原氏は福山(松前)、下国氏は下ノ国=茂別館、つまり和人地東方をかつて拠点としていた…と見ていたことが伺えます。
しかしこの塩による聞き取りには続きがあり、そこにはこれまでの情報にはなかった勢力図式が出現することとなります。以下に引用しましょう。 「…蝦夷蜂起シ騒乱甚シク…(中略)然ルニ(※蠣崎)若狭守信廣勇武ヲアラハシ数万ノ夷賊ヲ一戦ニシテ討敗リ夷賊ヲ討取ル事甚多シ。此故ニ国中ノ諸士其武勇ニ恐レ甲ヲ脱ギ旗ヲ巻テ信廣ヘ降ル…(中略)…北夷服従ノ後(※信廣は)相原ノ居城福山ニ移リテ居城トス。…(中略)…下国家ハ一領降参シテ今ニ其子孫松前家ノ執事ナリ、相原ハ蠣崎ノ為ニ落城シテ一家皆滅ビタリ。…(中略)是松前開基ノ説ニテ所在ノ老人物語セシヲ略記ス。」 これを先に引用した文の前半も併せてまとめると、「かつて蠣崎氏は相原氏・下国氏らより下位にあったが、蝦夷蜂起(コシャマインの戦い)において信廣が圧倒的な武勇を見せつけ諸士を怖れさせその配下へと治めた。下国氏は信廣に降ることにより現在もその執事として命脈を保っているが、相原氏は居城・福山を攻め落とされ奪われ、一族は全滅した」となります。
コシャマインの戦いからのタイムラグ(『新羅之記録』におけるコシャマインの戦いが1457年で福山・大館落城による相原氏滅亡が1513年なので実に56年)、蠣崎家の代替わり(信廣は1494年没)等々の考証のおかしさはさておき(これは先の「下国周防守」の出現の段階から起き始めている「説話化」の一端でしょう)、興味深いのは「相原氏と蠣崎(松前)氏の対立関係」の描写です。
この対立関係はやがて物語的にライバル関係へと装飾され、後に勃興する「相原周防守伝説」の大きな位置を占めるようになります。その萌芽が認められるうち最古のものが、この塩による現地巷説の拾遺記録になります。
これが拾遺された文化4(1807)年は、時おりしもラクスマンやレザノフといった外交官の渡日、そして文化露寇といった軍事的衝突を経て対露関係が悪化し、北方防衛を直轄せんとした江戸幕府により松前藩が梁川(現:福島県)へと転封され蝦夷地を去った年でした。またこの巷説が拾遺されたエリアは、寛政11(1799)年に先んじて上知(没収)されていた箱館周辺でもあります。これらの状況を勘案するに、あるいはこの「蝦夷地に所在したはずの松前氏への対立者」としての相原氏像には、松前藩の影響力低下により噴出した藩開闢以降200年近くに渡り鬱積されていた領民らの藩に対する不平不満、そのルサンチマンが仮託されているのではないか…私はそう仮説しています。
4.「前領主」相原周防守像の確立と「大沼入水伝説」の出現
現在「相原周防守」について語られる上で外せないエピソードが、彼の大沼入水伝説です。 巷間に伝わるその説話の概略をまとめると、「アイヌ民族に敗れ(あるいは松前家に敗れ)自領にある大沼まで落ち延びた相原周防守は、最早これまでと愛馬を解き放ち山へと逃がし、傍らの岩に鞍を掛け自らは大沼に身を投げて命を絶った。ここから山の名を駒ヶ岳といい、鞍を掛けた岩を鞍掛岩という。」といった形になります。時には娘二人も共に命を絶った、あるいは攻め手の武田(蠣崎)義廣は親友の周防守と和解し救うべく急いだが間に合わなかった…などの要素が付与される、なんとも悲劇的なエピソードではあります。
しかしこの長く語られてきたエピソードには、実は決定的な考証の欠落が存在するのです(この周辺の地形形成史に詳しい方であればお気づきになられたのではないでしょうか)。
まず相原周防守政胤の史上の活躍年代は、享徳3(1454)年の政胤渡道から遅くとも明応5(1497)年の彦三郎季胤による大館館主継承までに限られます。もし仮に季胤の事績を(「周防守」と「彦三郎」という通称の差異を度外視して)これに含めたとしても、季胤が自刃した永正10(1513)年までです。
一方、大沼が形成されたのは寛永17(1640年)、駒ヶ岳の大噴火による山体の崩壊によってくずれ落ちた岩屑なだれが川をせき止めたことによってです。つまり、相原氏の命脈が絶たれた約130年後になってようやく地球上に出現する大沼には、政胤であれ季胤であれ「相原周防守」が当時身を投げようとしても物理的に不可能ということになります。
この大沼の形成過程について地質学的な研究が始まったのは20世紀初頭ごろであり、19世紀時点にかの地に暮らした人びとにとってはうかがい知り得ぬことではあったでしょう。寛永大噴火は藩の記録にも遺り全道的に大きな被害を及ぼした歴史にのこる自然的イベントではありましたが、江戸時代後半当時までの200年程度のうちにその記憶は失われ、より情緒的な「歴史(物語)」へと上書きされてしまっていたわけです。歴史記録というものの重要さを物語る事例の一つと言えるでしょう。
ではこの「大沼入水伝説」はいつ頃、どのような過程を経て生まれたのでしょうか。その手がかりとなる巷説を拾遺していた人物がいます。かの松浦武四郎、その人です。彼が著した紀行文『蝦夷日記』(弘化2・1845年)からその内容を書き出してみましょう。
武四郎がその「おもしろき話」(『蝦夷日記』)を拾遺したのは大沼近くを通りすがった時でした。土地の住民らが語るところによると「大沼の辺から駒ヶ岳にかけて『先領主』相原周防守の飼っていた馬がまだ生きており、たてがみは地面に引きずるほど長くなっている。その姿を見かける者がたびたびあったが、みな遠からず死んでしまい、一つの怪事となっている」というのです。
また、「大沼に入水して死んだ相原周防守の呪いにより、大沼そばを松前家の家老が通るといつも木々が倒れるほどの大嵐になる。文政の末頃に松前監物が巡島からの帰路大沼辺を通った時、雷雨が激しかったという。『家老小林三左衛門と申もの(※小林兵吾長裕)』が通った時も樹が地面を払うほどの暴風と車軸を流すほどの雨が降り人々は甚だ困ったという」という説話も併せて拾遺しており、入水の経緯は不明であるものの、
・相原周防守は「先領主」である ・周防守は大沼に入水して自死した ・駒ヶ岳は周防守の馬にちなむ
など、後世に伝わるエピソードのフォーマットがこの時点で出来上がっていることがわかります。
なおこの巷説に特徴的である「大沼に入水した者の呪いにより松前家のものがそばを通ると荒天となる」というエピソードですが、これについては別の人物の逸話から流用・転化された可能性があることについて触れておきましょう。
明治時代に地域沿革の調査に併せて著され所収された「相原周防守旧話」によると、天保期(1830-1844)の幕府医官・坂立節(坂丹邱・坂春璋・小林東鴻などの別号別名あり)が記した『玄雅』という書物の中で以下の内容を見た、という証言が拾遺されています。曰く、 「松前広峯(広行)の姉が若狭の船客と通じ広峯を殺そうとしたため、広峯は単騎内浦山(※現在の駒ヶ岳)に逃れ隠れたが餓死したという。愛馬は湖中に入り、今なおその嘶く声が聞こえることがある、という。以降、松前家中のものが村内を巡回し大沼の端を過ぎると迅雷にわかに生じ攫い去ろうとする。」
この内容の記述については、原典資料を捜索しましたが行き当たりませんでした。坂立節は『医心方』『喫茶養生記』などの医学書の著者として知られ、また蝦夷の風俗について聞き取り書き留めた『蝦夷風俗物産質問筆記』も遺しています。しかし、これらを含む現在参照可能な彼の著作は一通り目を通しましたが、上述するエピソードに該当する記述は見られませんでした。また、『玄雅』なる著書の存在も確認できませんでした(別人の同題著作含む)。
松前広峯(広行、1704-1738)は村上系松前氏の四代目にあたる人物ですが、元文3(1738)年に故あって切腹を命じられ亡くなり、現在は福島町にある広峯神社に祭神として祀られている人物です。その最期に大きな隔たりがあるためこれもまた事実とは言い難いエピソードですが、仮に「この証言が」実際に存在した著述に基づくものであったとしたら、この松前広峯のエピソードを含め「それらしい」巷説が「相原周防守」説話として収斂されていく過程を見出せる可能性があり、着目しています。 ※なおこの他にも、山田三川による『三川雑記』中に「一 松前ノ大沼ハ君侯通行アレバ天気アルヽ也。」との記述があります(「此度城ブシン」の頃とあるので松前城改築期(1850~1854)の話と見られますが、相原周防守と結び付けられてはいません)。
閑話休題、話を少し戻しましょう。武四郎が『渡島紀行』に大沼での「相原周防守伝説」を拾遺した9年後の嘉永7(1854)年、箱館奉行所の堀利煕・村垣範正らが著した『蝦夷目撃』には駒ヶ岳と相原周防守にまつわる次のような説話が拾遺されています。
「駒ヶ岳と申す高い山あり、この山に昔相原周防守と申す人、馬に乗りて山に登り馬共に死せしと申す事なり、故にこの山を駒ヶ岳と申すなり」
この説話では相原周防守は大沼に入水せず駒ヶ岳で愛馬と共に亡くなったことになっています。つまり、この段階では(松前広峯説話を仮に当時説話に含めると)大沼・駒ヶ岳を舞台とした悲劇的終局譚としては、
・貴人が大沼に入水し、駒ヶ岳にその愛馬が放たれ命を落とす ・貴人が駒ヶ岳に入山し、大沼にその愛馬が身を投げ命を落とす ・貴人・愛馬ともに駒ヶ岳で命を落とす
という少なくとも3つのパターンがあり一定していなかった、と言えるでしょう。 とはいえ、後に相原周防守「伝説」の根幹を為す大沼入水伝説が創作・形成されたのはこのころ、幕末に差し掛からんとする19世紀半ばであった可能性は極めて高いでしょう。このほかにも徐々に各地で「相原周防守」にまつわる説話が各地に勃興してきた様子が松浦武四郎によって拾遺されています(前出の『蝦夷紀行』、ならびに安政3年・1856年の『武四郎廻浦日記』)。以下にご紹介しましょう。
・桔梗野は「先国主」相原周防守なるものが城地にせんと計画した土地である(七重浜周辺で拾遺) ・「荒神の祠」に祀られている宝剣が相原周防守のものであるという説があるという(知内村で拾遺) ・土地の人の話では、雷荒神社のそばに相原周防守の古跡があるという(知内村で拾遺) ・知内村よりしばし行ったウクイ川を越えた先に外記浜という浜がある。相原周防守の老職同苗外記が討ち死にした場所であるという(福島村で拾遺)
いずれも前代に存在が確認できない新規エピソードばかりであり、果ては「同苗外記」なる架空の人物が創作されるなど、当時の「相原周防守」の持つ訴求力が伺えるようです。この根源となったものを推定するに、先述した松前藩治からの脱却あるいは影響力の低下(松前家は14年間の梁川領有ののち1821年に蝦夷地に復領しますが、箱館開港に伴って1854年に木古内以東を再び失領します)によるルサンチマンの発露、あるいは自分たちに対する「松前藩系統以外のルーツ」を求める内的欲求などが考えられるかもしれません。こうして江戸時代末期に萌芽した「相原周防守ブーム」は、次なる時代…明治時代以降も引き続くこととなります。
5.「虚像の英雄」相原周防守の確立とその影響
明治期に入ると「相原周防守」のブームはピークに達したと見られ渡島各地で彼に因んだ逸話が語られるようになり、特に明治~大正期にかけて北海道史編さんのため拾遺された各村の縁起沿革の中にその名が度々語られるようになります。以下に、現在拾遺できている「当時新興」の「相原周防守」に係る逸話を列記しましょう。
(1)「相原周防守」の息子?「宗山甲斐守」伝説 初出出典―『上磯、谷好、冨川、中野、清川五ヶ村沿革調』(明治13・1880年)
・年号不詳(※1)、宗山(そうやま)甲斐守、家臣数十名を引率して出羽ノ町(※原文ママ)より谷好村(現在の北斗市谷好)字櫻岱に渡来、百個の煙を世に掲げ宗山村を開く(※2)。宗山甲斐守、松前家と激戦の末敗走(※3)、父相原周防守の館へ遁走して穏伏。このとき次男丈之助に家臣平野善五郎らを就け宗山村から落ち延びさせ、海岸に三軒の家を建て村としたのが三ツ家村すなわち三ツ谷村の始まりであるという(※4)。のち天正元(1573)年、平野善五郎、宗山村三柱の神社に鰐口を奉納(※5)。
※1.大正7(1918)年の『函館支庁管内町村誌』に編集再録された際には「文安2(1445)年」と年代が具体になっている。しかしなお、『新羅之記録』による相原周防守の初渡道年代(1454年)を9年さかのぼり辻褄が合わない。 ※2.まず相原周防守に宗山姓の姻戚がいた記録自体は無い。「宗山(と書き「そうやま」と読む)」姓も現在北海道にしか存在せず、過去の姓氏辞典にも出現しない。現地には現在の「宗山川」「添山」、あるいは「楚山」(『松前志』1781)「岨山」(『ひろめかり』1789)といった「そうやま」に類する地名が残るが、その初形は『津軽一統志』(1669)や『松前島郷帳』(1700)、『松前西東在郷並蝦夷地所附』(1727)に見える「しよやま」である。 当時記述ではアイヌ語「so」に起源する地名は同語が「s-」音と「sh-」音を区別しないため、「そ」が「しよ(しょ)」と表記されることは一般的であり、そのために同音から生まれた地名にも「宗谷(そうや)」「庶野(しょや、えりも町)」「塩谷(しおや)」など複数のパターンがある。「しよやま」もこれらと同類のアイヌ語起源の地名である可能性が高い。 また、『新羅之記録』にある彼らの出発地は下北半島の大畑であり、出羽(秋田~山形)とは距離的にあまりに遠い。 ※3.先述の通り、相原氏と松前氏の対立イメージが創り出されたのは江戸時代後期に入ってからである。そもそも、相原氏滅亡時は未だ「蠣崎氏」である(「松前」に名乗りを変えるのは徳川家康に臣従した1599年以降) ※4.三ツ谷村の史上初出は『松前島郷帳』(1700)で、それ以前の史書では存在が確認できていない。初出表記は「三屋村」であるが、その後の史料中でも「三(ツ)谷」「三(ツ)屋」「水屋」などの表記ブレが幕末まで続き一定しない。 ※5.谷好稲荷神社に奉納されている実在の鰐口の刻字を参照したものと思われるが、実際に刻まれているのは「正徳三(1713)年癸巳歳三月吉日 願主三家村善五郎」。相原季胤の自刃(1513年)の200年後である。
(2)亀田半島は「相原周防守」の領土だった?説 初出出典─『函館支庁管内町村誌』大正7(1918)年
・尻岸内村古武井(現:函館市古武井町、旧恵山町)の古老・三好又右エ門氏(当時76歳※1)曰く、「当地方は初め桔梗野城(※2)の相原周防守の所領なりしが、後松前候の領地となり…」とのこと。
※1.逆算すると天保13(1842)年生まれとなる。4.にて先述した、「大沼入水伝説」などが現れ始めた頃の生まれである。 ※2.ちょうどこの三好翁が生まれて間もないころに松浦武四郎が渡島半島を旅していること、そしてその際拾遺した巷説は「桔梗野は相原周防守が『城を建てようとした』場所らしい」という話であったことに注意したい。つまりは、「桔梗野に城を建てようとしたらしい」→「桔梗野に城があった」と話が発展しているのである。なお、桔梗野は18世紀の松前邦広、19世紀の市川一学提案によって城地として候補に挙げられ調査もされているが、城が建っていたという記録はない。さらに補足すると、武四郎は古武井方面もくまなく踏査しているが、これに類する説話は拾遺していない。
(3)相原周防守の旧城あちこちにありすぎホントはどこだよ問題 初出出典─『函館支庁管内町村誌』大正7(1918)年
< 1 >七飯村城山 ・「相原周防守政胤、七重浜の戦いに敗れ城山の塁を奪われ(※1)大沼を渡りしという」「騎馬大沼湖を渉り駒ヶ岳に至りて鞍を乾かしたることありと」(※2)
※1.経緯は後述するが、函館平野を中心にブームを起こした一連の「相原周防守伝説」と『新羅之記録』にある記述の辻褄を無理矢理合わせた結果コシャマインの戦いの決戦地が七重浜であることになぜかなってしまう事態が発生している。が、本来は先述の通り上ノ国・花沢館周辺である。政胤が失陥したのもはるか西方の松前・大館である。 ※2.繰り返しになるが、政胤存命時に大沼は存在しない。
・永正10年6月28日、相原周防守季胤はアイヌに大館を攻められ落ち延び、砂原の同族の力を借りて再起を図るべく城之岱の砦に入るも再び攻められ鹿部方面を目指し逃れ、鬼柳の岩山に上り「沼はまだか、沼はまだか」と叫ぶ。ついに大沼にたどり着くも二人の姫とも離れ離れになり、季胤は岸にあった小舟で沖に出るも愛馬に引導を渡したのち入水、二姫も入水。なおこの時武田義廣は季胤を救おうと駆けつけるも間に合わなかったという(※3)。
※3.これも繰り返しになるが、季胤存命時にも大沼は存在しない。愛馬や二姫・武田(蠣崎)義廣とのエピソードなどディテールが多分に増し、物語としての「完成」が進みつつあるのが興味深い。
<2>空木之岡(現在の北斗市・矢不来段丘) ・空木之岡(※1)に相原周防守が居城を構えたのが開村の謂れ(※2)である(富川村・現:北斗市富川にて拾遺)。 ・「空木ヶ岡(※1)ノ一部茂邊地ヘノ道路(間道ニシテ坂路)ノ右方小高キ所之レ馬場ト稱スルモノニシテ正長(※3)ノ頃相原周防守ノ居城セシノ跡ト傳フ。」(上磯村拾遺)
※1.「空木ノ岡」「空木ヶ岡」の表記ブレはあるものの、いずれも現在の矢不来段丘上を指す。上磯村拾遺巷説の内容を見るに、現在言う所の「矢不来館」を指すものと推定される(同地を「古城跡」と指摘する古文書・古記録は現在9件析出している。なおこれは余談ではあるが、現在「茂別館」とされている場所を古城あるいは居館跡としている記録は江戸時代には全く見られない)。2.にて先述した「下国周防守」のように、江戸時代を通じてその「城主」に擬定されていたのは下国氏に連なる人物であったが、ここにきて「相原周防守」に転じているのが興味深い。 ※2.「富川村」の史上初出は『松前島郷帳』(1700年)である。それ以前の同地における村落として確認できるのは、『津軽一統志』(1669)内における「一本木」という名のアイヌ民族の村落である。 ※3.正長は1428~1429年。相原政胤が渡道する約20年前であり、安東盛季による蝦夷地進出(嘉吉3・1443年)からも15年ほどさかのぼる。なお政季による調略前であるから、当時相原氏は安東氏に与してすらいない。
<3>鹿部「横峯山」 ・「相原周防守の古城は横峯山(※1)にあり」(鹿部村拾遺)
※1.「横峯山」の所在が現在地名では確認・特定できず。明治6年の耕作反別記録である『畑反別書上小前連印帳』には「(鹿部村)字横峯山ノ下」が確認できる。
(4)その他 ・「姫の湯」の名の由来は、当時相原周防守の姫君が入浴したことがあったから(知内村拾遺。初出出典─『函館支庁管内町村誌』大正7・1918年)。 ・明徳年間(1390-1393)、相原周防守の藩士・川村太郎が率先して市渡に来住、同村を開いた(※1、市渡村拾遺。初出出典─『河野常吉資料』明治30・1897年~大正13・1924年)。
※1 渡道年代が相原政胤らの渡る50年以上前、江戸幕藩体制以降にならねば一般化しない「藩士」呼びなどツッコみどころしかない。なお、市渡村が史書上で確認できるのは宝暦8(1758)年の『松前蝦夷聞書』が初出である。江戸幕府の国勢調査である『松前島郷帳』(1700年)では域内村落としてその名は無く、1717年の巡検提出時にも加筆されていないことからそれ以前に同村が存在した可能性は低い。
…以上、明治以降になって出現する「相原周防守」関連説話について書き出してみましたが、いかにそれぞれの話同士の辻褄が合わなかったり考証的に著しい誤りが含まれるか、当時てんでばらばらに「創作」された感がうかがえるエピソードぞろいであるかがおわかりいただけたかと思います。
また、その出現エリアが松前家お膝元である福山町とそのお隣・福島村より東、つまりは前述した「幕末にかけて松前家のくびきを逃れたエリア」に広く散在しているのが興味深いところです。ここには、あるいは明治新時代の訪れ・価値観のリセットが先述した「自らのルーツを松前藩以外に求める」(そしてそれを「北海道史」にまぎれこませる)に丁度よいタイミングであったことも影響しているのではないでしょうか(「宗山甲斐守」「川村太郎」といった架空の相原氏縁者などはその典型的な例と言えるでしょう)。
やがて渡島地方で郷土史編纂の機運が高まり、大正元(1912)年に改元記念事業の一つとして実施することが渡島教育委員会の総会で決議されます。これを機に各町村でその沿革史がまとめられ集積されるのですが…集まったものの中には前述の通り辻褄の合わない「相原周防守」伝説が多分に含まれていたのでした。
この編纂作業の中で、おそらく最も困難を極めたのは福山町(現:松前町)の沿革史編纂であったでしょう。なにしろ一応は『新羅之記録』という松前家としての正史があるものの、渡島半島東方・函館平野を中心としたエリアでは「アンチ松前ヒーロー」とでも呼ぶべき「相原周防守」が人気を博し雨後の筍の如く彼にまつわる説話が乱立している状況です。「相原派」の勢いと内容を無視して進めては、松前家は北海道史における「悪役」の地位に固定されてしまう可能性すら考えられたかもしれません。
結果、福山町の沿革史は『新羅之記録』を基本の筋としながら、大胆な装飾と加筆により「相原説話」と強引に整合を取った、軍記物語もかくやという文章に仕上がってしまうのです。以下に「新たに加えられた」内容をいくつか例示しましょう。
・コシャマインの戦いの時、「盟主」下国定季籠る大館がアイヌ軍に包囲されるところを武田信廣が救い出し(※1)、そのままアイヌ側の本拠である函館まで遠征。コシャマインを討ち大逆転する(※2)。この時、信廣の「親友」であった相原政胤は遠征に同行し信廣をかばい七重浜で戦死(※3)。
※1.『新羅之記録』では大館はそのまま落城。信廣とコシャマインの交戦地点は上ノ国・花沢館。 ※2.上述の通りコシャマインの没地も上ノ国。函館平野周辺で広まっていた相原周防守説話と強引に辻褄を合わせたものか。 ※3.ここで突如信廣と政胤の親友設定が生えてきており、「最初から敵対してた訳ではない」体にして松前家のイメージアップを図っている様が見て取れる。親友設定、七重浜での戦闘、ひいては政胤の戦没に至るまでこの文章が初出のエピソードであり、これ以前には確認できない(なお「渡島東部での戦闘」としては、アイヌ研究で名高いジョン・バチェラーが『日本国北海道蝦夷今昔物語』(1884)内で「アイヌが函館で相原周防守と戦った」旨の記述を遺しており、こうした巷説が当時存在し、これが「七重浜での戦闘」の祖型となった可能性がある)。
・定季の子恒季が暴政を働いたため信廣の子光廣がこれを攻め、恒季は自害。代わって大館城主に政胤の息子である季胤(光廣の義兄弟※4)が就く。季胤は政胤から「周防守」を継ぐ(※5)。 ※4.信廣-政胤親友設定に続く松前家イメージアップ作戦。もちろんこの設定もこの文章が初出。 ※5.巷間に溢れていた「相原周防守」説話は政胤・季胤親子の活躍年代をまたにかけて創作され続けていたため、本来「彦三郎」である季胤が周防守を名乗っていることになる(中には季胤の時代の事績までが「周防守政胤」の名で語られる)という事態が散見された。その矛盾を解消するビッグアイデア…ではあったが言うまでもなく史書上にそんな記述はなく、この文章が初出の設定。
・疫病平癒のため相原季胤生符に熊野社を勧進するが、その際に村上政義が矢越岬の沖にアイヌの娘たち二十余人を沈め人身御供とする(※6)。これをきっかけにアイヌの大蜂起が起こる。光廣の子義廣を謀殺しようとして失敗したため、季胤は蛎崎氏も敵に回す。
※6.今日矢越岬の伝承のひとつとして語られることの多いこの説話であるが、この文章が初出である可能性が極めて高い。その後の季胤の末路に説得力を持たせるために創作された可能性もある。
・相原季胤、蠣崎氏とアイヌに大館を同時に攻められるなか、自害(※7)。
※7.福山町側の説話では季胤は大沼に逃れず、史実?通り大館と運命を共にする。ただ『新羅之記録』ではアイヌ民族の攻撃を受けて落城し自害、とあるものが、ここでは攻め手に蠣崎氏が加わっている。これは当時、(3.で述べた塩隆好拾遺の巷説のように)「相原氏の大館陥落と滅亡には蠣崎氏が関与している」という陰謀論が根強かったことが影響しているのではないのだろうか。つまり、ただその噂を否定して諧謔心を煽るよりは、「確かに蠣崎(松前)も相原氏を攻め滅ぼしたけど、彼にも(そうされる)理由があったでしょ?」という筋立てのほうが納得させやすい、そんな計算があったのかもしれない。
…かくして、江戸時代後期から幕末にかけて萌芽した「相原周防守」説話群は、「公式編纂」という過程を経て大正時代に一大「相原周防守伝説」へとまとめあげられてしまったのです。
これとほぼ並行して、元教員の新聞記者にして郷土史家であった千葉稲城が函館毎日新聞紙上において連載した『北海史談』(明治43・1910年)では、登場人物の細かなセリフまで加えられた一大スペクタクルストーリーとしてこれらの「松前家創設史・相原周防守悲劇譚」が総まとめされ好評を博していました。こうした虚実定かならぬ情報群を考証なく練り上げる、物語づくりとなんらかわらぬ「史書編纂」によって、今日流布する「相原周防守」という虚構の英雄像が完成されていったのです。
6.「相原周防守伝説」が我々に語るもの
かつてほど持て囃されることはほぼ無くなりましたが、未だなお各地にこの幕末~近代にかけての「相原周防守狂騒曲」の名残がところどころ遺っています。例えば実際の地を遠く離れた記念碑であったり、未だなおコシャマイン没地を当市七重浜とする記述もweb上をはじめ散見されます。
自分の父は大沼出身なのですが、子供の頃は相原周防守入水の悲劇を「史実」として事あるごとに聞かされたそうです。同地における説話の完全な成立を顕彰碑の建った明治36(1903)年とすると、父の幼少期までわずか50年ほど。たったそれだけの時間があれば、「歴史」は「定着」してしまうのです。
ことに大沼入水伝説に関しては、先述の通り事績の発生と大沼の存否に決定的な年代的矛盾があるにも関わらず、今日その可能性について考慮された形跡がありません。人は、「そうあれかし」と思い綴った物語をわざわざひもとき覆そうとはしないものです。が、それは本当に正しい事なのでしょうか。
時代と共に研究は進み、資料は蓄積され、新たな知見やアプローチのための手段も日進月歩で生み出されています。にも拘わらず、ここ道南における郷土史研究は、どこかかつての「市町村史ブーム」の時代で止まってしまっているような、そんな印象を自分は5年前の着任以来感じています。
当市の文化財でいえば松前藩戸切地陣屋、あるいは大野口の戦い(旧称:意冨比神社の戦い)や二股口の戦いなど、改めて実施した史料精査・調査研究によりこれまでの固定観念がほぼ覆されつつある事例が多くあります。これらに関連して実施している幕末松前藩史に関しても、おそらく大きく見直さねばならない事態が近く訪れるでしょう。道南の歴史は未だフロンティアに満ち、今まさにその較正を行うべき時期に来ているのではないか…今回例に挙げた相原周防守の虚像構成から現在に至るまでの過程は、それを示唆しているような気がします。
追記:なお余談ではありますが、現在「駒ヶ岳」と呼ばれる山の名称について史料析出と分析を行った所、「駒ヶ岳」の名称が現れるのは寛政11年(1799)の『東遊奇勝』が最古であり、それ以前は一貫して「内浦(ウチウラ)嶽(または内浦山)」呼びであることが確認できました。その後も圧倒的に「内浦嶽」呼びが一般的であり。「駒ヶ岳」が定着を見せ始めるのは1840年代で、完全に「駒ヶ岳」に切り替わるのは明治2(1869)年に開拓使が地名として設定して以降になります(ですので、駒ヶ岳を「相原周防守の馬」に結びつける説話も幕末以降の後付けということになるでしょう)。これについては、またいずれ詳しくお話できればと思います。
by dounan-museum
| 2023-12-19 14:28
| コラムリレー
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