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北海道立函館美術館の田村です。当館では、現在「アートギャラリー北海道 蠣崎波響生誕260年 蠣崎波響と松前の至宝」展を開催しています(図1)。本展は、北海道全体がアートの舞台となることを目指す取り組み「アートギャラリー北海道」事業の一環として開催するものであり、松前町教育委員会が所蔵する数々の名品を紹介しています。なかでも、本年、生誕260年を迎える、文人であり松前藩家老でもあった蠣崎波響【かきざき・はきょう】、1764―1826)およびその参考作品の総所蔵点数は、令和6(2024)年度末で80点を超える。また、熊坂適山や高橋波藍ら弟子筋の作品を含めると200点を超える見込みで、これらは近世松前美術史の精華をたどる国内有数の資料群といえます。本稿では、これまで紹介される機会の少なかった松前町教育委員会所蔵の波響作品を中心に、波響の画業をたどります。 ![]() 波響、初期の画業 蠣崎波響は、明和元(1764)年、松前家12世資廣【すけひろ】の五男として福山館(現・松前城)で生まれました。2歳で藩の家老・蠣崎家の養子となり、藩随一の碩学【せきがく】である叔父の松前廣長により江戸の松前藩邸に派遣され、日本古来の文学・歴史・行政制度・書・絵画・漢詩などの教育を受けます。幼少期より絵画に親しんだと言われる波響を語る際に、江戸の松前藩邸に出入りした津軽藩の絵師・建部凌岱【たけべ・りょうたい】の存在を欠くことはできません。凌岱は、長崎に渡来した中国は清朝由来の南蘋派【なんぴんは】の写実画法を習得していただけではなく、廣長やその妻にも絵画を教えており、波響がその影響を受けた可能性は大きいと考えられます。その影響が最もよく表れているのが、淡い墨で描かれた「懸泉幽居図【けんせんゆうきょず】」(図2)、波響20歳前後の天明年間制作の作品です。屹立する岸壁を背景に、手前に配された岩の上から伸びる木々が力強く描かれています。それらの木々を見てみるとわずかに湾曲して描かれているのがわかります。これは凌岱が生前に記した絵画指南書『漢画指南』にある「巌上之樹法【がんじょうのじゅほう】」に即した描き方と一致する部分があります。そこには「石上ニ立ル樹法ハ如クノ是トク盤屈スル意ヲ写シ出ス也」とあり、指南に沿った描法を実践していることがわかります(図3)。波響はおそらく当時すでに流通していたこうした書物から絵画技法を学んだと考えられます。なお、同作の署名を見てみると、「東岱」とあり、師匠の凌岱から一字拝借しており、波響が凌岱に私淑していたことがわかります。 安永3(1774)年の凌岱没後は、師匠の遺言により当時の江戸で南蘋派を代表する絵師として活躍していた宋紫石【そう・しせき】の門下で才能を発揮します。鮮やかな色彩と写生による写実描法を基本とする同派の基礎的な画技を学びました。特に宋紫石は南蘋派のなかでも、余分なモチーフを極力排除し、非常にシンプルで整理された画面の作品を手がけています。 本展出品の《花鳥図》(図4)にもその傾向は見られ、写実描写を目指したことはもちろん、対象とする鳥と、止まり木である桜の枝のみで構成された簡潔な画面に仕上がっています。 さて、宋紫石の指導を受けたのち、波響は20歳で松前に戻り、家老見習いとなります。松前で波響が描いた代表作のひとつに、寛政2(1790)年に完成したフランス、ブザンソン美術考古博物館に原本が所蔵されている《夷酋列像【いしゅうれつぞう】》(本展未出品)が挙げられ、アイヌの指導者ら12名の風貌や華麗な衣装を精巧に描き評判となりました。それらの作品は、衣服の鮮やかな色彩が目を引くだけでなく、毛髪部分を拡大すると一本一本丁寧に描かれていることがわかります。本展出品作では、《桜花美人図》(図5、6)においても、その繊細な描法を展開しています。寛政3(1791)年、波響は《夷酋列像》を携え、京都へ向かいました。 ![]() 京都では、松前を訪れたこともある大原呑響【おおはら・どんきょう】、生涯尊敬し続けた漢詩人・菅茶山や六如【りくにょ】など、多くの文人墨客と交遊し、漢詩人たちとの親睦を深めました。こうした風流人との交際は波響の感性を豊かにし、その後の活動に大きな影響を与えることになりました。絵画においては、その間、大原呑響の仲介もあり、円山派の始祖・円山応挙【まるやま・おうきょ】と知遇を得て、平明洒脱なこざっぱりとした描法を習得し、のちに「松前応挙」と称されることになります。松前町教育委員会所蔵の波響作品の中で、その影響が如実にうかがわれる作品として、晩年の文政4-5(1821-22)年頃に制作された《登竜門図》(図7、8)が挙げられます。当時の江戸では、鯉の滝登り図のような縁起の良い吉祥図が好まれ、多くの絵師がこれらの図像を手がけました。波響は流れ落ちてくる水流が細い帯状に分割され、そのすき間から鯉の姿態が垣間見える技巧に富んだ作品に仕上げています。こうした手法は円山応挙《龍門登鯉図》などの図様にも見られ、同作の制作が寛政5(1793)年であるかことから、波響3度目の上洛時、寛政6(1794)年にはすでに完成しており、おそらくこうした作例をどこかで目にした波響が、自分なりの表現に昇華した作品といえるでしょう。 少し時代を巻き戻しますと、《柴垣群雀図》(図9)は、波響の数 ![]() 図9:蠣崎波響《柴垣群雀図》寛政8(1796)年、松前町教育 図10 大原呑響の賛 このほか、近年の波響研究の進展により、喜多川歌麿の狂歌絵本『 波響がこうした狂歌絵本に親しんだ可能性は非常に高く、その理由 ![]() 図11 喜多川歌麿「蛙 こがねむし」『画本虫撰』天明8(1788)年 提供:国文学研究資料館 図12 蠣崎波響《蓮蛙図》寛政年間(1789-1801)、松 絵画分野で目覚ましい活動を展開した波響ですが、文化4(180 松前町所蔵の作品のなかで、当時の優品として挙げられるのが、つ ![]() 図13 蠣崎波響《雪中双鹿図》文化12(1815)年、松前町 奥行きのある現実的な空間表現を目指した《嵐峡春藹図【らんきょ ![]() 図14 蠣崎波響《嵐峡春藹図(嵐山の図)》文化3(1820) こうした波響の奔走もあり、文政4(1821)年に松前藩は北海 ![]() 図15 蠣崎波響の「祈願成就図」4点、すべて文政5(1822 晩年も衰えぬ創作意欲 数え年60歳を迎えた文政6(1823)年、波響は息子の波鶩【 一方、当時、老齢であったこともあり、度々体調を崩すこともあっ ![]() 図16 蠣崎波響《大黒天図》文政7(1824)年、個人蔵 最後になりますが、故郷・松前町が所蔵する波響の優品を同町以外
by dounan-museum
| 2024-11-03 13:48
| コラムリレー
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