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炭素から年代がわかる 厚沢部町郷土資料館の石井です。 放射性炭素年代測定は、考古学でもっともメジャーな年代測定法です。中性子線の影響により大気中の窒素が放射性炭素(C14)に変化するため、地球の大気中には一定量の放射性炭素が存在します。この放射性炭素は光合成の働きによって植物の体内に取り込まれます。植物が生きているうちは、常に炭素を吸収したり排出したりするため放射性炭素の量は一定ですが、植物が死ぬと内部に取り込まれた放射性炭素はどんどん減っていきます。5730年で放射性炭素が半分になる(半減期)ことを利用したのが放射性炭素年代測定法です。 考古学が対象とするの主な年代は10万年くらい前までなので、半減期5730年の放射性炭素は年代測定に最適な物質です。 ぴたりと年代があたるわけではない 放射性炭素年代測定は非常に強力な手法ですが、ぴたりと年代がわかるわけではありません。一つは計測誤差、もう一つは放射性炭素の変動があります。 現在主に行われている加速器を用いた放射線炭素の測定(AMS法)では、約5000年前の資料で25〜40年の測定誤差(標準偏差)があるとされます。これは非常に小さい測定誤差です。 放射線炭素年代測定の根底にあるのは、大気中の放射性炭素の比率が一定だったという前提ですが、そんなことはありません。太陽活動の影響や地球大気の状況によって大きく変動します。測定誤差の数十年と比べて放射性炭素比率の変動が年代に与える影響は甚大です。 ![]() 上の図の縦軸は測定年代、横軸が較正年代です。測定年代は950年前をピークとした尖った山形の分布になりますが、較正年代は800年前から900年前までの広い範囲にかけて分布します。900年前から800年前にかけて大気中の放射線炭素が減少し、それが放射性炭素の半減速度と偶然釣り合っているためにこのようなことが起こってしまいます。 ちなみに、放射性炭素比率が一定だったと仮定した理論的な年代をBP、実際の年代にあてはめた較正年代をcalBPと表現します。上の図はBP950(+-30)のデータを較正したもので、較正年代は800年前から900年前となります。ちなみに、BPは1950年を起点にして何年前かを示す指標です。BP950=1950-950=西暦1000年(11世紀初頭)となります。 道南の遺跡 さて、放射性炭素年代は大気中の放射性炭素の変動という厄介な問題がありますが、年単位で年代の確率分布が示されるという点で利用価値の高いものです。一つ一つの試料では較正年代の幅に悩まされたとしても、確率分布の集積として扱えば、年代幅は必ずしも問題にはなりません。 2024年11月現在、南北海道の埋蔵文化財包蔵地は1452箇所が知られています。海沿いに多くの遺跡が分布しますが、北部の後志利別川流域や南西部の厚沢部川流域、函館平野など大きな河川沿いには内陸にも遺跡があることがわかります。 ![]() 測定年代は約8000年前を最古として、現代にいたるまで分布しますが、5,000年前から3,000年前の縄文時代中期から後期の測定年代が大きな山を形成しています。 ![]() ダイナミックな遺跡の動態 それでは、道南の遺跡の変遷をみていきましょう。 時代区分との対比はおおむね次のとおりです。 10000年前=早期初頭 7000年前=早期末 6000年前=前期中頃 5000年前=中期前半 4000年前=後期初頭 3000年前=晩期前半 2000年前=続縄文 1000年前=擦文 500年前=中世(アイヌ文化期) ![]() 10000〜7000年前 亀田半島に分布の中心があります。この時期は年代測定が行われた試料も少なく、遺跡動態を語るには少しデータが少ないのかもしれません。いずれにせよ、亀田半島は縄文時代の人々の有力な生活領域だったことは間違いありません。 6000年前 縄文時代前期には分布の中心は函館平野へと移ります。亀田半島も早期から引き続き人々の生活が営まれていましたが、年代測定試料からは人々の活動領域の中心は函館平野に移ったようです。 5000年前 縄文時代中期には測定試料数が増えたこともあり、分布が道南全域に広がります。中心的な領域を見出すことは困難ですが、函館平野、旧南茅部町、噴火湾沿岸には高い密度で人々の暮らしがなされていたと考えて良いでしょう。 4000年前 縄文時代後期には一転して北部に中心が移ります。測定試料のバイアスなどの影響も考えられますが、前期〜中期にかけて営まれた大きな遺跡が廃絶し、新たな領域へと人々の居住中心が移動した可能性も十分にあります。縄文時代後期には円筒系の土器が廃れ、南の大木式の影響やさらに関東地方の加曽利B式など遠隔地の土器文化の影響がみられることから、人々の暮らしや居住領域にも大きな変動があったと考えるべきでしょうか。 3000年前 2000年前 縄文時代に続く続縄文の文化です。分布は亀田半島が中心となります。続縄文文化は竪穴住居が見つからない時代として知られており、それまでのような竪穴住居で構成される集落跡が発掘調査では見つからなくなります。遺跡の検出が難しくなったことが一見すると、遺跡の分布が縮小したように見えるのかもしれません。 1000年前 500年前 まとめ 一方、デメリットは時間幅をもった年代であること、個人の主観に左右されること、さらに単独では絶対的な年代(今から○年前)がわからないことです。 縄文時代の土器編年の1単位、型式の時間幅はおよそ100年かそれ以上です。したがって、これより細かい時間幅の人間の活動を捉えることは難しいといえます。また、土器の鑑定は長年の訓練を必要とします。すなわち、鑑定する個人の格差が大きいことを意味します。 これに対して放射性炭素年代測定は、年単位で測定年代が求められること、信頼できる機関の分析であれば、分析組織や個人の差が出にくいことが特徴です。より細かいスパンで年代がわかると同時に、測定結果を一般化しやすいといえます。また、絶対的な年代が求められることも土器編年に基づく年代推定にはない大きなメリットです。 かつては放射性炭素年代測定には高額な費用がかかりましたが、近年では安価に実施することができ、測定データも蓄積されています。遺跡の年代を直接知る手法として、統計的な処理がしやすいメリットと合わせて、今後、さらに重要性が高まるものと期待しています。
by dounan-museum
| 2024-12-09 04:00
| コラムリレー
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