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函館市縄文文化交流センターの太田です。 太平洋戦争終結から80年を迎え、函館市縄文文化交流センターの所在する函館市南茅部地域でも、戦争を語り継ぐことのできる方は少なくなっているのが現状です。昭和20年(1945)7月14~15日にかけての函館空襲は、青函連絡船などを中心に函館市内に莫大な被害を出しましたが、平成の大合併で函館市になった地域でも空襲があったことはあまり知られていません。今回のコラムは「南茅部町史」の記録をもとに、南茅部地域の空襲について触れてみたいと思います。
【南茅部の防空監視哨】 昭和12年(1937)、津軽要塞司令部は「津軽要塞管区防護団編成要領」を作成し、はじめは村々の警防団防空部として沿岸を監視することを目的としていました。 ついで昭和16年(1941)、独立した防空監視哨の設置が、軍と道庁の命令によって各村々に義務づけられました。勤務は各村によって多少の相違はありますが、特別手当のような定められた勤務報酬はなかったものの、共同炊事用の米、味噌などが役場から支給され、特別に砂糖の特配をうけて「おしるこ」などの会食を楽しむことができたそうです。 しかし、戦況が次第に悪化し、男子の哨員(監視員)が出征などのために減少してくると、次第に女子哨員のみによる監視に変わっていったようです。防空監視も24時間勤務で3班か4班編成で交替するようになりました。体制も厳しくなっていったようです。
【南茅部地域の空襲】 昭和20年(1945)に入り本格的な本土空襲が始まると、3月の東京大空襲をはじめ、名古屋、大阪、神戸と大都市を標的とした空襲が相次ぎました。 7月14日早朝、沿岸は濃霧。突如として警戒警報、ラジオやサイレンによる空襲警報が発令され、函館上空には濃霧の海上から南へ向かって飛ぶ大編隊が飛来しました。アメリカ軍の艦載機によって、青函連絡船は12隻のうち10隻が撃沈され、函館駅、駅前、西部地区も空襲を受け、焼失家屋408戸、死者(船舶を含む)450余名の被害を出しました。函館空襲です。 同日、道内の鉄道の各駅や町村が空襲をうけ、室蘭市と噴火湾の近海を航行していた船舶も攻撃を受けています。 翌7月15日には、アメリカの艦載機が今度は噴火湾沿いの各町村を攻撃し、機銃掃射と小型爆弾による攻撃を浴びせ、住宅などを破壊、焼失させ、多くの死傷者を出しました。 アメリカ軍の記録によれば、室蘭の市街・工場などのすべての要所は、アメリカ軍に掌握されており、正確な座標に基づいて攻撃されていました。 南茅部地域の空襲について、南茅部町史の記録を見ると、古部、木直、見日、尾札部、川汲、安浦、臼尻、大船、望路(現・岩戸)の各町が空襲を受け、南茅部町全域での主な被害は全焼全壊16戸、死者6名とされています。 制空権をほぼ失っていた日本は、南茅部のような小規模町村に至るまで空襲を受け、各地で大きな被害を出しています。そして8月に入ると、6日に広島・9日に長崎に原子爆弾が投下され、さらに8月8日にソ連が日ソ中立条約を破棄し、翌9日からソ連軍が満州、南樺太、千島列島に侵攻したことにより、日本はさらに大きな被害を受けました。 ここに至り、8月14日、日本はついにポツダム宣言受諾を決定し、8月15日の玉音放送で国民は日本の敗戦を知ることになるのです。 ![]()
by dounan-museum
| 2025-09-23 09:29
| コラムリレー
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