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北海道立函館美術館の高橋です。
第二次世界大戦が終結して80年の節目となる本年、当館では12月20日(土)から「道南の美術 戦時下の諸相」展を開催します。本展では、当館が所蔵する道南ゆかりの作家たちによる戦争に関する作品や資料を中心に、作家たちが戦時という激動の時代をどのように生き、何を表現したのかを振り返ります。今回は展示予定の作家の中から、戦地での記者経験をもつカメラマン・間世潜(ませ・ひそむ)をご紹介します。
間世潜(1904-59 本名、小林政次)は1904年に函館に生まれました。北海道における写真技術の指導者的存在だった田本研造(1832-1912)の門人・池田種之助(1871-1944)が創業した池田写真館で写真を学び、そこで研鑽を積んだ写真技術が評価され、28年ごろに北海タイムス(現北海道新聞)函館支局に入社。34年の函館大火では、報道の最前線で被災状況を撮影しました。 37年日中戦争開戦後には、北海タイムス社の特派員として中国北部に派遣され、各地の様子を記録し、新聞に記事を掲載しました。当時、戦地で記者が撮影した写真や記事の内容は、国内世論を誘導する対内宣伝のための役割も担っていました。そのため紙面には、現地の子どもたちと交流する日本兵や穏やかに暮らす農民の姿といった平和的な写真が掲載されました。しかし、そのような制約の中でも、間世の写真からは戦地に生きる人々の現実を捉えようとする意思が感じられます。 ![]() ![]() 第二次世界大戦末期にさしかかる44年には、北千島の最東端にあたる占守島の海軍基地に報道班員として派遣され、アメリカとの最前線となった占守島、幌筵島を取材しました。間世が当時つけていた日記には、戦地での生々しい体験が克明に記録されています。本展では、間世が日中戦争期に撮影した写真、新聞連載記事のパネル、北千島で日記をつけた手帖を展示し、間世が見つめた戦時の光景をたどります。 本展では触れませんが、間世が「間世潜」と名乗りはじめたのは戦後で、のちにフリーランスのカメラマンとして舞台芸術や芸能人のポートレートを多く手がけました。代表作の『ライカ写真集 トラピスチヌ修道院』は、沈黙・祈り・労働・聖なる読書といった修道女たちの生活を、そこに流れる静かな時間を切り取るような視点で撮影しています。このトラピスチヌ修道院の写真に見られるような被写体を見据えた写真には、戦地の人々の現実を見つめた間世の経験が映し出されているかのようです。
このほかにも、今回は田辺三重松が戦時下で描いた油彩やスケッチ、岩船修三《山崎部隊アッツ島玉碎決意》の綿密に描かれた下絵とパネル、菊地精二《死守(ノモンハン戦)》のパネルを展示します。岩船と菊地の戦争画は長らく人々の記憶から忘れられていましたが、2022年に当館学芸員(当時)が函館護国神社で発見し、24年に当館に寄贈されたものです。いずれも修復が必要な状態のため、今回はパネルでの紹介となりますが、来年度には本格的な修復を予定しています。当館では今後も戦争関連作品の調査・研究を進めます。
【展覧会情報】 ミュージアム・コレクション冬~春「道南の美術 戦時下の諸相」 会期:2025年12月20日(土)~2026年4月5日(日) 会場:北海道立函館美術館常設展示室 観覧料:一般260円、高大生150円 *中学生以下および65歳以上、身体障害者手帳や療育手帳、精神障害者保健福祉 手帳をお持ちの方(ミライロID利用可)およびその介護者1名などは無料。 *高校生は毎週土曜日および学校の教育活動で利用する場合は無料。 美術館WEBサイト:https://artmuseum.pref.hokkaido.lg.jp/hbj/
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by dounan-museum
| 2025-12-09 14:44
| コラムリレー
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こんにちは、八雲町郷土資料館・木彫り熊資料館の三浦です。 今年は戦後80年の節目ということで、このコラムリレーを含め、展示・書籍・映像など多くの媒体で戦争史が取り挙げられています。当館でも「戦争のキヲク~八雲町の戦中・戦後のくらし」と題し、新たに聞き取りをした体験談を中心に展示を行いました。今回は、その展示で紹介しきれなかった体験談の1つをご紹介したいと思います。 熊石に住むある男性は、小学校を高等科2年まで通い、漁師をしながら青年学校にも通いました。その後、昭和20年の5月(14歳の頃)に海軍に入る予定でしたが、色弱が理由で入隊は同年8月まで延期となりました。しかし、8月15日正午の玉音放送によって日本の敗戦が告げられます。入隊が決まった後、男性は「どうせ戦争に行くんだから」と遊び回る日々を送っていたそうで、玉音放送の時もマス釣りに出かけていました。帰ってくると町中大騒ぎになっていて、とても驚いたそうです。 戦後は食糧不足など様々な困難の中でなんとか生活をしていましたが、昭和29年9月26日に「洞爺丸台風(台風15号)」が北海道を襲い、熊石の港も大打撃を受けました。台風の前に、生温い嫌な風が吹いていたのが印象的だったそうです。 終戦から80年が経ち、どこか他人事として考えがちな戦争の歴史ですが、「体質が原因で出征延期」「玉音放送は聴いていない」といった個人差が感じられる体験談を知ると、より身近なものとして捉えられるように思います。 #
by dounan-museum
| 2025-11-24 10:00
| コラムリレー
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今金町教育委員会の宮本です。 今年5月、ある町民から寄贈の相談があり、お宅に伺いました。それは押し入れの奥の方にあり、出してもらったところ、濃い緑色の古びた鞄でした。 お話を伺うと、概略次のようなことでした。 私の父は自ら志願して海軍に入り、霞ヶ浦海軍航空隊(現在の茨城県阿見町)の海軍飛行予科練習生だった。戦地に赴いたこともあったらしく、非常に危険な任務だったはずだ。終戦を迎え、身の回りのものはすべて赴任地に残して帰ってきたのだが、後日、父の部下がわざわざこの自宅までこの鞄を届けに来てくれた。この中身は飛行機乗りが携帯する落下傘一式で、以来ずっとそのままにしてある。 中をあけると、大きな白い落下傘の生地が折りたたまれており、これと一緒にゴーグル、帽子、手袋、メモ、地図が入っていました。メモの筆跡から、お父様が使われていたもので間違いないこともわかりました。 そして町にこの鞄を寄贈いただくこととなりました。 戦後80年という節目の年、今回寄贈されたものや町が所有する戦争関連資料を多くの町民に見てもらおうと、秋に行われる町の文化祭に展示しました。期日は10月25・26日、会場は今金町総合体育館の一角です。 落下傘は大きいので、2階のランニングデッキの手すりからつり下げて展示しました。また、「改訂今金町史(上巻)」の戦没者一覧表に基づき、その戦没地を示す地図を作り、大きく拡大して展示しました。この地図作りは以前のこのコラムで投稿された厚沢部町教育委員会石井淳平学芸員の取り組みから着想を得て、当町でもやってみたいと思っていたものです。地図を作成してみて、改めて利別村(現今金町)の人がこれほど多く、またこれほど広い範囲に戦地へ送られたことに驚きました。 展示コーナーでは、立ち止まってじっくりと資料をご覧になる方、亡くなった親族の戦没地を指差す方など、色々な方とお話をすることができました。この2日間の来場者は延べ約900人。多くの方に改めて戦争について考える機会を提供できたと思います。 なお、戦没地の地図を作成する際は、町史の記載ではあまりにも抽象的で、場所の特定に至らないケースも多々ありました。今金町教育委員会は継続して戦争関連資料や情報を収集しています。随時受け付けていますので、何か情報をお持ちでしたらどうぞお気軽にお尋ねください。 #
by dounan-museum
| 2025-11-22 12:22
| コラムリレー
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![]() 北斗市郷土資料館から特別展開催のお知らせです。 11月15日から3月6日まで、北斗市総合分庁舎どり~みん2階・北斗市郷土資料館特別展示室において、特別展「国指定史跡松前藩戸切地陣屋跡 築城170周年記念展」を開催します。 この機会にぜひお越しください。
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by dounan-museum
| 2025-11-17 17:18
| 北斗市郷土資料館
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松前町教育委員会の西川です。 皆さん、ジャガイモを使った料理といえば、何を思い浮かべますか? フライドポテト、ポテトサラダ、肉じゃが。北海道に住む人間としては、いももち、道の駅で食べるあげいも…。ジャガイモは約80年前の戦時中の日本でも、よく食べられていました。当時はどんなジャガイモレシピがあったのでしょうか。 戦中の日本。多くの働き手が戦場に行き、残された人々は限られた資源を工夫して使い、必死に生き延びる日々を送っていました。食料は配給制に移行し、その量は次第に減少。食料が配られない「欠配」も発生しました。 そんな世の中で掲げられた言葉「拓け家庭の菜園を」のもと、人々は食料を確保するためにわずかな土地でも開墾し、家庭菜園を作ります。小学校には実習畑が設けられ、児童たちは馬鈴薯(ジャガイモ)やカボチャを育て、これを使って給食を作ることもありました。 各家庭では、主食である米の代わりになるものを工夫して作り出しました。そこでよく用いられたのが馬鈴薯です。茹でてそのまま食べるのはもちろん、米と炊いて混ぜご飯、でんぷんを取った粕も「あも」というお菓子になり、余すことなく食べられました。 今回は、馬鈴薯を茹でて練るだけの定番おやつ「どったら」を実際に作ってみました。どったらは、松前町では主に小島、大島地区に伝わっています。 【材料(2人分)】 ジャガイモ 3個 塩 適量 黒砂糖 100g 水 200ml 【作り方】 1.イモの皮をむき、水に少しさらしてから、塩を入れて茹でる。 2.竹串がスッと刺さるように、中まで火が通ったら、ザルにあげてイモを冷ます。 3.イモをすり鉢に入れて潰し、粘りが出るまでよく擦る。 4.黒砂糖と水を合わせて火にかけ、タレをつくる。 完成!タレに付けながらいただきます。 【実食】 最初はタレに付けないでどったらを食べてみました。ねばりが出てもったりとした食感ですが、味はもちろん、そのままのジャガイモです。 タレにつけて食べてみると、ジャガイモから一気におやつになりました。さらっとしたタレがほどよく絡み、くどすぎない黒蜜の甘さがジャガイモの味を引き立てます。 美味しいですが、毎日のように食べては飽きてしまうかもしれません。 昔は昼ごはん用に茹でた馬鈴薯の残りを冷まし、おやつの時間にどったらを作ったそう。今回お話を伺った方に、「どったらは好きでしたか?」と尋ねたところ「好きもなんも、おやつなんて他になかったからねえ」とおっしゃっていました。また別の方は、幼少期に馬鈴薯をずっと食べていたため、今は苦手とのこと。 なんでもすぐに手に入り、無限の選択肢がある豊かな今だからこそ、皆様に食べてみていただきたいおやつです。 みなさんのお家のレシピも、ぜひ教えてください。
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by dounan-museum
| 2025-11-14 12:00
| コラムリレー
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