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森町教育委員会の片山です。 森町は北海道内を往来する上で多くの人が通りかかる地点であり、今でもJRの特急が停まりますが、陸路のみならず海路においても交通の拠点となる場所でした。その歴史を伝える文化財が町内にはいくつもありますが、今回はその中でも古く、町指定文化財にもなっている「三界萬霊塔」を紹介します。 森から箱館まで続く道は1555年ころ(弘治年間)にはニシンを求めて箱館からの出入りが増えたことにより作られてから、茅部場所として賑わいをみせ、休憩所や宿泊所の施設なども設置されるようになります。特に箱館から峠下を経由し宿野辺(現在の赤井川・駒ヶ岳)から鷲ノ木へと向かう経路は重要な街道となっていました。 三界萬霊塔はその街道の中で駒ヶ岳の麓に位置する宿野辺村(現在の森町字駒ヶ岳)に建てられました。建立されたのは1863年(文久3年)のことで、高さ約91㎝、幅約60㎝の安山岩製の石碑です。正面にはその名を示す「三界萬霊塔」と刻まれていて、その横には建立年月日を示す「文久三年五月十二日」が記されています。「三界」は過去・未来・現在を意味し「萬霊」は人や生き物全ての魂を表す言葉です。二つの言葉を合わせて「ありとあらゆる全ての魂を供養する」という思いが込められています。 ![]() 保護舎設置前の三界萬霊塔 (引用:森地方史研究会1981『森町の史跡と碑・石仏』) 町が交通の要路であることを示す歴史的な資料であり、町に現存する碑の中でも古いものであることから1977年(昭和52年)2月1日に町の有形文化財に指定されました。民地の中にあり保存のために保護舎が設けられていて、今も大切に管理いただいています。「駒ヶ峯温泉 ちゃっぷりん館」へ向かう道すがらで見ることができますので、足を運ぶ機会がありましたらぜひご覧ください。 ![]() 三界萬霊塔周辺の様子 現代でも交通事故のニュースは後を絶ちませんが、行き交う人々の安全を願う気持ちは今も昔も変わらないことでしょう。 #
by dounan-museum
| 2024-12-20 17:46
| コラムリレー
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炭素から年代がわかる 厚沢部町郷土資料館の石井です。 放射性炭素年代測定は、考古学でもっともメジャーな年代測定法です。中性子線の影響により大気中の窒素が放射性炭素(C14)に変化するため、地球の大気中には一定量の放射性炭素が存在します。この放射性炭素は光合成の働きによって植物の体内に取り込まれます。植物が生きているうちは、常に炭素を吸収したり排出したりするため放射性炭素の量は一定ですが、植物が死ぬと内部に取り込まれた放射性炭素はどんどん減っていきます。5730年で放射性炭素が半分になる(半減期)ことを利用したのが放射性炭素年代測定法です。 考古学が対象とするの主な年代は10万年くらい前までなので、半減期5730年の放射性炭素は年代測定に最適な物質です。 ぴたりと年代があたるわけではない 放射性炭素年代測定は非常に強力な手法ですが、ぴたりと年代がわかるわけではありません。一つは計測誤差、もう一つは放射性炭素の変動があります。 現在主に行われている加速器を用いた放射線炭素の測定(AMS法)では、約5000年前の資料で25〜40年の測定誤差(標準偏差)があるとされます。これは非常に小さい測定誤差です。 放射線炭素年代測定の根底にあるのは、大気中の放射性炭素の比率が一定だったという前提ですが、そんなことはありません。太陽活動の影響や地球大気の状況によって大きく変動します。測定誤差の数十年と比べて放射性炭素比率の変動が年代に与える影響は甚大です。 ![]() 上の図の縦軸は測定年代、横軸が較正年代です。測定年代は950年前をピークとした尖った山形の分布になりますが、較正年代は800年前から900年前までの広い範囲にかけて分布します。900年前から800年前にかけて大気中の放射線炭素が減少し、それが放射性炭素の半減速度と偶然釣り合っているためにこのようなことが起こってしまいます。 ちなみに、放射性炭素比率が一定だったと仮定した理論的な年代をBP、実際の年代にあてはめた較正年代をcalBPと表現します。上の図はBP950(+-30)のデータを較正したもので、較正年代は800年前から900年前となります。ちなみに、BPは1950年を起点にして何年前かを示す指標です。BP950=1950-950=西暦1000年(11世紀初頭)となります。 道南の遺跡 さて、放射性炭素年代は大気中の放射性炭素の変動という厄介な問題がありますが、年単位で年代の確率分布が示されるという点で利用価値の高いものです。一つ一つの試料では較正年代の幅に悩まされたとしても、確率分布の集積として扱えば、年代幅は必ずしも問題にはなりません。 2024年11月現在、南北海道の埋蔵文化財包蔵地は1452箇所が知られています。海沿いに多くの遺跡が分布しますが、北部の後志利別川流域や南西部の厚沢部川流域、函館平野など大きな河川沿いには内陸にも遺跡があることがわかります。 ![]() 測定年代は約8000年前を最古として、現代にいたるまで分布しますが、5,000年前から3,000年前の縄文時代中期から後期の測定年代が大きな山を形成しています。 ![]() ダイナミックな遺跡の動態 それでは、道南の遺跡の変遷をみていきましょう。 時代区分との対比はおおむね次のとおりです。 10000年前=早期初頭 7000年前=早期末 6000年前=前期中頃 5000年前=中期前半 4000年前=後期初頭 3000年前=晩期前半 2000年前=続縄文 1000年前=擦文 500年前=中世(アイヌ文化期) ![]() 10000〜7000年前 亀田半島に分布の中心があります。この時期は年代測定が行われた試料も少なく、遺跡動態を語るには少しデータが少ないのかもしれません。いずれにせよ、亀田半島は縄文時代の人々の有力な生活領域だったことは間違いありません。 6000年前 縄文時代前期には分布の中心は函館平野へと移ります。亀田半島も早期から引き続き人々の生活が営まれていましたが、年代測定試料からは人々の活動領域の中心は函館平野に移ったようです。 5000年前 縄文時代中期には測定試料数が増えたこともあり、分布が道南全域に広がります。中心的な領域を見出すことは困難ですが、函館平野、旧南茅部町、噴火湾沿岸には高い密度で人々の暮らしがなされていたと考えて良いでしょう。 4000年前 縄文時代後期には一転して北部に中心が移ります。測定試料のバイアスなどの影響も考えられますが、前期〜中期にかけて営まれた大きな遺跡が廃絶し、新たな領域へと人々の居住中心が移動した可能性も十分にあります。縄文時代後期には円筒系の土器が廃れ、南の大木式の影響やさらに関東地方の加曽利B式など遠隔地の土器文化の影響がみられることから、人々の暮らしや居住領域にも大きな変動があったと考えるべきでしょうか。 3000年前 2000年前 縄文時代に続く続縄文の文化です。分布は亀田半島が中心となります。続縄文文化は竪穴住居が見つからない時代として知られており、それまでのような竪穴住居で構成される集落跡が発掘調査では見つからなくなります。遺跡の検出が難しくなったことが一見すると、遺跡の分布が縮小したように見えるのかもしれません。 1000年前 500年前 まとめ 一方、デメリットは時間幅をもった年代であること、個人の主観に左右されること、さらに単独では絶対的な年代(今から○年前)がわからないことです。 縄文時代の土器編年の1単位、型式の時間幅はおよそ100年かそれ以上です。したがって、これより細かい時間幅の人間の活動を捉えることは難しいといえます。また、土器の鑑定は長年の訓練を必要とします。すなわち、鑑定する個人の格差が大きいことを意味します。 これに対して放射性炭素年代測定は、年単位で測定年代が求められること、信頼できる機関の分析であれば、分析組織や個人の差が出にくいことが特徴です。より細かいスパンで年代がわかると同時に、測定結果を一般化しやすいといえます。また、絶対的な年代が求められることも土器編年に基づく年代推定にはない大きなメリットです。 かつては放射性炭素年代測定には高額な費用がかかりましたが、近年では安価に実施することができ、測定データも蓄積されています。遺跡の年代を直接知る手法として、統計的な処理がしやすいメリットと合わせて、今後、さらに重要性が高まるものと期待しています。 #
by dounan-museum
| 2024-12-09 04:00
| コラムリレー
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七飯町の観光名所でもある「大沼」 名前とは裏腹に「湖」に分類されるため、正確には「大沼湖」と呼ぶのだから、紛らわしい事この上ない。 一般的に知られる姿としては、キャンプ場や島々を渡りながら景色を楽しめる散策路といったレジャーに関係する場所が多いので、今も湖水を利用して発電している事は、あまり知られていないだろう。同じように、湖のほとりにポツンとえらく時代のついたコンクリート建造物が残されている。それが今回紹介する「旧銚子口取水口」である。 ![]() 旧銚子口取水口 東大沼キャンプ場近くにあるこの取水口は、現在立入禁止となっているので、近くまでは行くことが出来ないが、とても味わい深い建造物のため、産業遺産の分野で七飯町の新たな文化財に加えられないかと、水面下で調査を継続している物件のひとつでもある。 現代社会に必須のエネルギーである電力は、近代化が推し進められた明治時代以降にようやく、各地に発電施設が建設されるようになったのだが、この取水口もその潮流に乗る形で明治41年7月に建設された。 建設したのは函館水電株式会社。もともと明治39年に「渡島水電株式会社」として創立し、大沼の流水を利用した水力発電事業に着手した。銚子口の取水口のほか、鹿部町の駒見(小川地区)に大沼第一発電所を設け、折戸川を利用した水力発電事業が始まったのだが、丁度そういった事業が活発化しはじめた明治41年12月に「函館水電株式会社」へ社名を改めたのである。また、大正期になってから第二・第三発電所を建設すなど事業を拡大させ、大沼で発電した電力は、七飯や函館に限らず、森町や上磯などにも供給された。 取水口跡近景 さて、取水口の構造なのだが、函館市中央図書館に「渡島水電工事」という簿冊が残っており、それによると構造としては、 ・幅4尺の入口が4個あり、門扉を設けている。 ・水路底面の基準は292尺×1、290尺×1、288尺×2の3種類。 ・入口の先端には、塵止めを設置し、浮遊物の流入を防ぐ。 ・表面は石積み裏詰(込め)で、底はコンクリートを用いる。 ・水路に接続する場所などには、落下防止の救命鉄(鉄柵)を設ける。 また、取水口から続く水路は950間先の「接続井」まで続き、大沼からは毎秒120立方尺(約37㎥か?)を見込んでおり、そのほか雨鱒川からも20立方尺の水を用いて第一発電所へ流していたと記されていた。水路は現在の地図上でもその直線的な姿を確認でき、設置からさほど経過していない、大正期に発行された大沼の鳥瞰図にも取水口や水路などが描かれている。 ところで、七飯町歴史館には、この地図のほかにも、建設間もない頃の撮影と考えられる写真が残されている。それに映る姿と現存する取水口を比較したが、多少の変化はあるものの、石積みの構造はほぼ変わらないことが伺えた。腐食して原型をとどめていないが、鉄柵も残っている。明治41年9月30日発行の『小樽新聞』にも、同様の写真が掲載されているのだが、肝心の記事が見当たらなかった。おそらくは各地の近況として写真のみの掲載に留まったのだろうと想像している。 ![]() 「函館水電株式会社 大沼発電銚子口水路取水口監視所」(七飯町歴史館 蔵) 以上に紹介してきた取水口や水路は、昭和40年に峠下地区に建設された七飯発電所の開業とともに、その役割を終えた。それに伴い、北海道電力株式会社によって大沼の水を折戸川へ放水するため、新たに「銚子口放水門」が作られた。 この時に、明治の取水口は取り壊されるはずだったが、幸いにして現在も残っている。その理由なども、明確でなないため、今後調べなくてはならないと感じている。 「市内を不夜城として我らの時間を経済させる。」 かつて函館水電株式会社が掲げたスローガンは、そのまま現代社会の姿となった。私たちは、そういった歴史を机上で調べるだけでなく、測量や撮影といった現地作業も多い。しかし、そういった調査を進める中で、関連する施設の存在が明らかになるなど新たな発見もある。なので、文化財としての価値をより高めることにつながると信じて、とにかくまずは動くことを意識している。 時間がない、お金がない、人手がないという言い訳ばかりしても、何も始まらないからだ。 そして、たとえ牛歩でも調査をすすることで、少しでも多くの方にその存在を知ってもらうことが、何か新たな活路につながるかもしれない。そんな淡い願いを内包しつつ、日々奔走している。 #
by dounan-museum
| 2024-12-02 00:20
| コラムリレー
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![]() 南北海道考古学情報雨交換会を函館市で開催します。
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by dounan-museum
| 2024-11-21 21:42
| 上ノ国町教育委員会
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立冬が過ぎ、暦の上では冬。 それでも本日は小春日和の様子で、 眩しい光が館内に差し込んでいます。 みなさん、こんにちは、 七飯町歴史館です。 当館では本日から、 企画展『「描く」をくらしに』を開催しております。 本展示は当館所蔵の美術作品を用いて、 その見かたや楽しみ方を提案できればと企画しました。 道南ゆかりの作家である橋本三郎、池谷寅一、鵜川五郎、木村捷司などの油彩や掛軸、絵画を施した食器や団扇といった日用品も、くらしを彩るものとして紹介しています。 ゆったりとした時を過ごしながら、アートを楽しんでもらえればと思います。 ほかにも、11月24日(日)には、今回の展示に協力・指導してくださった 北海道立函館美術館学芸員の大下智一氏によるギャラリートークも開催します。 興味ある方は、ぜひ当館まで申し込みください。 芸術の秋には、少し間に合いませんでしたが、 お近くにおいでの折には、お立ち寄りいただければ嬉しいです。 #
by dounan-museum
| 2024-11-09 14:59
| 七飯町歴史館
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