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皆さんこんにちは 風に涼しさを感じ、 トンボが朱色に染まっております。 秋の到来です。 さて、道南ブロック博物館施設等連絡協議会では、 下記のとおり、今年度も郷土学講座を開催いたします。 記 日時:平成30年10月6日(土)13:30~15:00 場所:知内町中央公民館 講堂 テーマ:「松浦武四郎が見た江戸時代の道南」 登壇者:宮原 浩 氏(江差町教育委員会) 前田正憲 氏(松前町教育委員会) 竹田 聡 氏(知内町郷土資料館) 興味のある方は、知内町まで足を運んでいただければ幸いです。 また、講座の開催にともない、本ブログ上で、 今回のテーマにちなんだ、 道南地区の学芸員たちによる日替わり投稿 「アドベンドカレンダー」も開始いたします。 あわせて、お楽しみいただければ嬉しい限りです。 #
by dounan-museum
| 2018-09-15 12:41
| テーマ「松浦武四郎が見た江戸時代の道南」
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「たいこ山にも つつじが 咲けば〜」 厚沢部町民なら誰でも歌って踊れる「あっさぶ音頭」の冒頭の一節です。 「太鼓山」は厚沢部市街地を見下ろす標高171mの低い山です。 市街地からみるとどれが太鼓山なのかちょっとわからないくらい特徴のない山ですが、「太鼓山スキー場」や「タイヤ公園」、「忠魂碑」などがあり厚沢部町民には馴染みの深い山です。 また、頂上で跳ねると太鼓の音がするという謎の多い山でもあります。 現在の太鼓山では「あっさぶ音頭」に唄われるような「つつじ」をみることはできません。 かつては「全山が真っ赤になっていた」、「遠くからでも山が燃えているようだった」というように、それはそれは見事なツツジの山だったようです。 日当たりが良くて栄養の少ない環境 ツツジという樹木は日当たりが良い環境を好みます。 低木ですから、周りに大きな樹木が映えるような環境では十分な光を得ることができずに弱ってしまいます。 また、ツツジはどちらかというと低栄養な環境を好みます。 土地が痩せて他の植物が旺盛に生育できない環境がツツジのホームグラウンドです。 日当たりがよく、栄養の少ない環境でツツジはたくましく生育します。 ハゲ山だった太鼓山 ということは、かつて「全山が真っ赤になっていた」という太鼓山はツツジが好む「日当たりがよく」、「栄養の少ない」環境だったということになります。 下の図は明治19年の「鶉山道」工事に伴って描かれたもので、厚沢部市街地の反対側からみた太鼓山の姿を描いています。 山に樹木は見えますが、全山が樹木で覆われているわけではなさそうです。 「鶉山道図鑑」の他の絵をみると、奥深い山中では山の中の樹木がしっかりと描かれているので、画家さんが手抜きをしたのではなく、実際の太鼓山を見たとおりに描いているのだと思います。 当時の太鼓山は樹木のほとんど生えていないハゲ山に近い状態だったと考えられます。 人がつくった太鼓山の環境 太鼓山がハゲ山だった原因は厚沢部市街地付近に住む人たちがさかんに薪炭材を採取していたことが考えられます。 木を切り倒すだけではなく、「たき木拾い」で落枝も余すところなく採取していたはずです。 さらに、落ち葉や柴(低灌木)なども田畑の肥料として採取していたと考えられます。 かつての日本農業では落ち葉や柴(ツツジなどを含む灌木)が重要な肥料として用いられていました。 1反の田畑に必要な肥料を確保するためには20倍もの山林が必要だったと言われています。 化学肥料や石油燃料が登場する以前の日本の山林は、大きな樹木は伐採され、林の中の落ち葉や枝もきれいに回収されていました。 このような山林の利用によって日本の山林の多くがハゲ山となり、地力も落ちたと言われています。 今でも森林法で落葉落枝の採取が禁止されているのは、こうした状況を防ぐための措置でした。 荒れた山林が土砂災害や河川災害をもたらすことは江戸時代から知られており、幕府も治山や水利に苦慮していました。 荒れた山とツツジ しかし、こうした環境はツツジにとって望むところでもありました。 特に、化学肥料や石油燃料が登場し、柴刈りが行われなくなるとツツジにとって絶好の環境が到来しました。 日当たりがよく、土壌が痩せていた昭和40年頃から50年代の太鼓山は、ツツジとっては非常に過ごしやすい環境だったはずです。 あっさぶ音頭がつくられた頃の太鼓山は、まさにツツジ天国だったのでした。 下の写真は昭和48年に太鼓山山頂から撮影された厚沢部市街地です。 現在の太鼓山は樹木に覆われ、太鼓山からこのような光景をみることはできません。 消えたツツジと唄い継がれるツツジ 今では太鼓山でたき木拾いや柴刈をする人はいなくなりました。 太鼓山の土壌は肥え、ナラをはじめとした広葉樹が生い茂っています。 もはやツツジが生育できる環境はありません。 あっさぶ音頭にうたわれた太鼓山のツツジは、人と森との関わりが途切れたわずかな時間におきた現象でした。 しかし、「太鼓山のツツジ」はあっさぶという町がこの世にある限り、これからも唄いつがれていくのでしょう。 #
by dounan-museum
| 2018-08-27 12:30
| コラムリレー
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市立函館博物館の奥野です。
写真1 現在も函館公園内に残る函館博物館1号館 ■最古の展示ケース? というのはこれまでにも紹介されてきた内容で、北海道立文書館に保管されている文書や矢田部の「北海道旅行日誌」(国立科学博物館蔵)などで、それらを裏付けることができます。しかし、モースの寄贈した貝類標本は、ミスジマイマイとヒダリマキマイマイの2件を除き特定できず(同定不可)、モースから助言や提供を受けた標本箱などの物品がその後どうなったのかは良く分かっていません。 写真2・3 ミスジマイマイとヒダリマキマイマイ 水産陳列場時代(明治24年~)のラベルも残されている
写真4 「最古の展示ケース」(現在も本館ロビーで使用しています) 「最古の展示ケース」とされていますが、それを証明する記録は確認できていません。開拓使の文書に触れられている可能性もありますが、これまでに明確にそれを指摘した方もおらず、なかなか調査の機会と時間の余裕もなく、調査自体実現していないのが実情です。
写真5 博物館1号館(全景)
入口から少しだけ館内の様子が写っていたので拡大して、現在に残る展示ケースと比較してみました。 入口左側に写る展示ケースと現在残されている展示ケースのはめ込み画像がほぼ一致することから、どうやら明治20年代にはすでにこのケースがすでに存在していたことが分かりました。
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by dounan-museum
| 2018-08-24 12:00
| コラムリレー
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八雲町郷土資料館の柴田です。 八雲町に聾唖学院が創設されて今年で90周年を迎えることから、6月7日(日)に北海道聾史講座実行委員会による「北海道聾史講座」第8弾が開催されました。 北海道聾史講座実行委員会により建立された記念碑 自身も聴覚障害者であった辻本繁は、函館訓盲院と東京盲唖学校では手話教育を学び、函館訓盲院では手話による授業を行っていましたが、八雲聾唖学院では口話法(一説には手話法)で授業を行っていたと言われています。 当時の聾唖教育は、手話法から口話法へと変わりつつある時期で、八雲聾唖学院にも口話教育を推進する滋賀県立聾話学校長の西川吉之助や文部省聾唖教育視学の川本宇之助らが視察に訪れたという記録が残されています。 聾唖学院開院当初は、住初町の貸家を臨時校舎として、わずか2名の聾児で授業が始まりましたが、その後男子4名と女子3名となり、昭和5年(1930)には辻本は函館の実家を売り、幸町(現在の末広町)に住宅兼校舎を建てました。 昭和9年(1934)には後援会による募金で、教室2、宿舎2、事務室1の増築が行われ、現在でも当時の校舎の一部が民家として残されていますが、当時のことを覚えている人はほとんど残っていない状況です。 #
by dounan-museum
| 2018-08-13 08:00
| コラムリレー
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松前町郷土資料館の佐藤です。
平成29年に、松前町を含む全国11市町が、日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」に認定され、1周年を迎えました。さらに平成30年度は、27市町が追加されて3市町での認定となりました。 そこで今回は、北前船が寄港した港湾施設「福山波止場」をご紹介します。
松前の福山城下町は、北が山にもたれ、南は津軽海峡に面し、海岸段丘にはりくつように形成されました。前浜は岩礁地帯で水深も浅いことから、大型船の停泊には不向きでした。少なくとも、松前三湊(松前・江差・箱館)の筆頭でありながら、江差・箱館よりも港湾としての条件は劣っていたのです。 しかしながら、本州に最も近く、日本海側と太平洋側の海運の結節点に位置するという地の利を背景に、近世には松前藩の政庁が置かれ、全国から様々なヒト・モノが運ばれてきました。その中核となったのが福山波止場です。
では、福山波止場の姿を見ていきましょう。まず、宝暦年間(1751~63)の福山城下町の秋を描いたとされる『松前屏風』です。屏風の中央下部に注目してください。松前城(この当時は福山館)の直下、小松前澗をはさんで東西の岩礁に係留杭が打たれている様子が分かります。大型船は岩礁を避けながら狭隘な澗に停泊するか、やや沖合いに停泊し、積載物を小型船に積み替えて前浜との間を往復していました。
一見、平穏な前浜に見えますが、松前湊には、函館山(箱館)や鴎島(江差)のように、波風から船舶を守ってくれる遮蔽物が無かったことから、荒天による破船・沈船が数多く記録されています。
さらに、幕府による東西蝦夷地の永久上知や箱館開港を契機に松前湊の政治・経済的地位は低下し、廃藩置県によって政庁としての性格までも失ったことで、松前湊に対する船舶の入港数は減少に転じました。これに危機感を覚えた商人が立ち上がります。 まず、明治6年(1873)に豪商 栖原小右衛門が467円余りを投じて、港湾施設の崩落箇所の修理及び長さ14間(25.45m)・高さ1丈(3.03m)の石垣を築き、安全性の確保に動きます。その後、福山城下の豪商有志らの寄付金5,350円に加え、明治新政府から6,000円を借入れ、石工 井上喜三郎に対し、波止場の建設を依頼しました。そして、廃城となった松前城の石垣石を波止場建設の資材として転用し、モルタルを使用した練り積みによって、明治8年(1875)に、東側(大松前波止場)が65間(118.18m)、西側(小松前波止場)が85間(154.54m)、2基の波止場からなる「福山波止場」が完成しました。その後、明治22年には小破修理、明治25年から3ヵ年をかけて北海道セメントの製品を用いた補修工事を実施しています。
安全性が高まった福山波止場には、北前船をはじめとする和船はもちろん、最新の西洋型帆船や汽船の入港もみられるようになりました。福山波止場は、明治30年代の北前船終焉を見届け、昭和28年に現在の弁天地区に松前港が完成するまで、松前における物流の中核として機能し、まもなくその役目を終えました。 国道228号線敷設に伴う埋め立てにより、東側約65m、西側約71mが現存するのみですが、①岩礁にみられる係留杭が近世松前の港湾形態をよく残しており、②近世から近代への過渡期を示す港湾施設であり、③北海道近代港湾の嚆矢である函館港に先んじて練り積みを採用した先進的な近代構造物である点が評価され、平成26年には選奨土木遺産に、平成29年には冒頭で述べた日本遺産の構成文化財となり、再び注目を集めるようになっています。
※松前町郷土資料館では、日本遺産認定1周年を記念し、平成30年8月1日~12月10日まで、「日本海交易と松前湊」と題したミニ企画展を開催しております。福山波止場の古写真パネルや、北前船に関連する様々な史資料を展示しておりますので、皆様のご来館をお待ちしております。 #
by dounan-museum
| 2018-08-06 06:00
| コラムリレー
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