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こんにちは、福島町教育委員会鈴木です。 昭和20年7月14日、福島町沖で日本海軍の駆逐艦「柳」とアメリカ軍の艦載機群との交戦があり、その戦傷者の収容看護に多くの町民が関わりました。戦時中、空襲等による直接的な戦場体験がなかった福島町民にとって、戦火の悲惨さと虚しさを直に肌で感じた瞬間だったといえるでしょう。今回は、今年度のコラムリレーのテーマ「戦後80年」に沿って、駆逐艦柳の福島沖での交戦の記録と福島町民の体験について触れたいと思います。 以下、昭和63年頃に笹森幸雄氏(当時福島町立吉岡中学校教諭)らが中心となって収集した、元乗組員や町民の証言を元に紹介いたします。 駆逐艦「柳」は、昭和19年(1944年)8月24日に起工された、対空・対潜兵装を主とする基準排水量1,262トン、最高速力27.8ノット、22号・13号電波探知機や水中聴音機などの最新装備を備えた新鋭の丁型(松型)駆逐艦の一隻です。この頃、北海道付近にアメリカ軍の潜水艦が出没し、北海道から本州へ石炭を運ぶ物資輸送の船舶が次々に攻撃されており、それに対応すべく、僚艦「橘」とともに青森県大湊に派遣されることになりました。「柳」は福島沖に碇泊し竜飛岬との間を、「橘」は函館沖に碇泊し大間崎との間を、それぞれ敵潜水艦が通航するのを水中探信儀・水中聴音機で警戒、発見したら直ちに出撃して掃討、近海で貨物船の被害があれば急航して敵潜水艦を捜索攻撃する任につきました。 駆逐艦「柳」が福島町沖(月崎南東沖約1km)に錨を下ろしたのは6月22日のことです。福島町沖での停泊中、乗員は交代で福島町に上陸し、中塚橋近くの風呂屋で入浴したり、福島川で洗濯をしたほか、自由時間での地元小学生との交流や、非番の下士官が町民を真似ていか釣りをするなど、僅かな時間で町民との交流があったようです。 7月14日早朝、東南東海域を北上するアメリカ軍第三十八機動部隊の艦載機大編隊を探知。駆逐艦「柳」は、午前6時56分に緊急出港をしました。直後、敵機約50機による烈しい波状攻撃を受け、それらをかわしつつ応戦するも艦尾に被弾。舵機系統の故障に続き、艦尾約10メートルが切断・沈没し、航行能力と通信能力を完全に失ってしまいます。右舷に大きく傾いてゆく様子に、アメリカ軍機は駆逐艦「柳」沈没とみたのか、引き揚げていきました。 福島町の人々も、陸からこの交戦を目にしていました。当時、福島町白符小学校4年生だった笹森氏も、白符地区の裏山の林の中からその様子を目撃していたひとりです。駆逐艦からパッパッと射たれる火と煙、アメリカ軍の飛行機から射ち出される爆弾の恐ろしい音、高い水煙が上がり艦尾がめくれ上がった駆逐艦「柳」の姿に、人々は手を合わせて泣いていたと振り返ります。 この戦闘で、砲術科員を中心に戦死者21名、重傷者3名、軽傷者57名という大きな被害を受けました。僚艦「橘」もこの日、函館沖で轟沈。戦死者140名を出したそうです。 航行不能となり漂流する駆逐艦「柳」のもとへ、福島連綴基地の大型運貨艇と福島町の漁船4隻が曳航に向かい、正午過ぎに月崎沖の水深4mの浅瀬に仮泊することができました。 負傷者は法界寺に運ばれ、町内の医師、大日本愛国婦人会、国防婦人会、女子青年団数十名で、昼夜を問わず看護に当たったとのことです。治療機材や薬品が不備な中での大変な対応でした。また、戦死者は専徳寺に運ばれ翌晩に火葬が執り行われました。 【体験談】 ・松谷 鶴江 さん(月崎) 両眼をなくした十代の兵士は苦しみのあまり母親か姉の名を読んでいた。 わたしは悲しくなって両手をやさしく掴んであげたら「あなたはわたしの母くらいの年齢ですか」と聞かれた。 わたしは胸がつまる思いでした。 ・阿部 きせ さん(川原町) 肩や背中からぎざぎざ状の破片を抜くための手術のとき薬品は赤チン位よりなく、麻酔もかけずに手術をし、傷兵は断末魔の苦しみでとても見ていられなかった。 その後、駆逐艦「柳」は修理不能と判断され、曳航修理のため7月20日に大湊へ向かいました。8月15日、終戦の詔勅が玉音放送で伝えられ、乗組員は順次呉へ帰投。「柳」の船体は、北九州の洞海湾にて同型艦「涼月」「冬月」とともに防波堤として最後の任務をまっとうしました。 平成3年5月、福島町の中塚橋の月崎側「駆逐艦柳応戦展望の地」の標柱、館崎地区のトンネルメモリアルパークに「駆逐艦柳平和記念塔」が建立されました。(「駆逐艦柳応戦展望の地」は、現在トンネルメモリアルパークへ移設されています。) 戦後80年が経ち、駆逐艦「柳」について、実体験を語ることができる人物はほとんど残っていません。この記憶を色あせさせず地域に引き継いでいくために、私達に出来ることを少しずつ取り組んでいきたいと思っています。 #
by dounan-museum
| 2025-11-10 06:12
| コラムリレー
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函館市文学館の小林です。 「戦後80年」のテーマに沿って、当館の常設展示作家の中から、3人の作家と戦争の関わりについて書いてみようと思います。 今日出海(明治36~昭和59年)は、兄の今東光とともに、兄弟で直木賞を受賞した作家です。函館の弥生町で生まれ、東京大学仏文学科に進みます。昭和5年には明治大学文芸科の教授となり順風満帆な人生でしたが、昭和16年、陸軍報道特派員としてフィリピンへ派遣されました。石坂洋次郎、火野葦平らと太平洋戦争初期のマニラに1年ほど滞在しました。この時の体験が『比島従軍』として発表されています。また、従軍中に文化人といわれている人の裏面を見てしまったことから、その後は人間の醜い本性を題材にした作品を多く執筆することになりました。昭和19年に再び徴用されたときは、マニラ到着後すぐにアメリカ軍の上陸があり、敗走する日本軍と5か月間山中を放浪します。その時の記録『山中放浪』は、戦争文学の傑作といわれています。戦争が大きな転機となり、小説家になった人といえます。 ![]() 今日出海 久生十蘭(明治35~昭和32年)は、函館元町生まれで弥生小から函館中学へと進みます。一度上京しますが、函館に戻って函館新聞社の記者となり、小説や戯曲を発表していました。その後再び上京すると、岸田國士に師事して演劇雑誌の編集を担当しました。昭和4年に演劇の勉強のためパリへ留学した後は、歴史・推理・ユーモアと多彩なジャンルの作品を発表しました。十蘭は昭和16年、出版社の派遣で中国戦線に山岡荘八らと短期間従軍しました。また昭和18年には、海軍報道班員としてジャワ・ティモール・アンボン・ニューギニアなど、現在のインドネシア方面へ派遣されました。報道班員が従軍中に日記をつけることは原則禁止されていましたが、遺されていた十蘭の日記が、平成19年に『久生十蘭従軍日記』として刊行されました。小説の魔術師と言われ、自分の内面を語ることを拒んでいた十蘭の素顔を、日記の中で読み取ることができます。日記は戦争自体の記録だけでなく、現地の人々の生活の様子や文化を知ることができる大変貴重なものです。また十蘭自身も日記を書くことで、気持ちの整理をしていたと思われます。十蘭の作品は戦争を経て、小説のテーマが、以前までのヨーロッパだけでなく、アジアにも目を向けるきっかけになったといわれています。 ![]() 久生十蘭 長谷川四郎(明治42~昭和62年)は、文学や絵画などの分野で活躍した、長谷川四兄弟の四男です。函館元町に育ち、立教大学から法政大学に進みました。ロシア語・ドイツ語・フランス語などを駆使し、絵本から文学作品まで翻訳を手掛けた人物です。大学卒業後、兄の濬と同じく満州に渡り、南満州鉄道株式会社、満州国協和会で働きました。昭和19年に招集され、ロシア国境に配属されました。終戦後ソ連軍の捕虜となって、5年間シベリアの捕虜収容所で労働に従事しました。帰国後にシベリア抑留体験を基に書いた『シベリア物語』など、多数の著作があります。苛酷な抑留生活を経験しながらも、広大な自然や人々の様子が簡潔な語り口で綴られる、くもりのない透明な作品が生み出されました。また『鶴』は芥川賞候補にもなりました。長谷川四郞自身も「戦争がなければ小説を書くことはなかっただろう」と回顧しています。 ![]() 長谷川四郞 参考文献/広報誌ステップアップ「函館ゆかりの人物伝」 (公益財団法人 函館市文化・スポーツ振興財団、1996~2016年) 写真 /函館市文学館所蔵写真より
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by dounan-museum
| 2025-10-14 16:20
| コラムリレー
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函館市縄文文化交流センターの太田です。 太平洋戦争終結から80年を迎え、函館市縄文文化交流センターの所在する函館市南茅部地域でも、戦争を語り継ぐことのできる方は少なくなっているのが現状です。昭和20年(1945)7月14~15日にかけての函館空襲は、青函連絡船などを中心に函館市内に莫大な被害を出しましたが、平成の大合併で函館市になった地域でも空襲があったことはあまり知られていません。今回のコラムは「南茅部町史」の記録をもとに、南茅部地域の空襲について触れてみたいと思います。
【南茅部の防空監視哨】 昭和12年(1937)、津軽要塞司令部は「津軽要塞管区防護団編成要領」を作成し、はじめは村々の警防団防空部として沿岸を監視することを目的としていました。 ついで昭和16年(1941)、独立した防空監視哨の設置が、軍と道庁の命令によって各村々に義務づけられました。勤務は各村によって多少の相違はありますが、特別手当のような定められた勤務報酬はなかったものの、共同炊事用の米、味噌などが役場から支給され、特別に砂糖の特配をうけて「おしるこ」などの会食を楽しむことができたそうです。 しかし、戦況が次第に悪化し、男子の哨員(監視員)が出征などのために減少してくると、次第に女子哨員のみによる監視に変わっていったようです。防空監視も24時間勤務で3班か4班編成で交替するようになりました。体制も厳しくなっていったようです。
【南茅部地域の空襲】 昭和20年(1945)に入り本格的な本土空襲が始まると、3月の東京大空襲をはじめ、名古屋、大阪、神戸と大都市を標的とした空襲が相次ぎました。 7月14日早朝、沿岸は濃霧。突如として警戒警報、ラジオやサイレンによる空襲警報が発令され、函館上空には濃霧の海上から南へ向かって飛ぶ大編隊が飛来しました。アメリカ軍の艦載機によって、青函連絡船は12隻のうち10隻が撃沈され、函館駅、駅前、西部地区も空襲を受け、焼失家屋408戸、死者(船舶を含む)450余名の被害を出しました。函館空襲です。 同日、道内の鉄道の各駅や町村が空襲をうけ、室蘭市と噴火湾の近海を航行していた船舶も攻撃を受けています。 翌7月15日には、アメリカの艦載機が今度は噴火湾沿いの各町村を攻撃し、機銃掃射と小型爆弾による攻撃を浴びせ、住宅などを破壊、焼失させ、多くの死傷者を出しました。 アメリカ軍の記録によれば、室蘭の市街・工場などのすべての要所は、アメリカ軍に掌握されており、正確な座標に基づいて攻撃されていました。 南茅部地域の空襲について、南茅部町史の記録を見ると、古部、木直、見日、尾札部、川汲、安浦、臼尻、大船、望路(現・岩戸)の各町が空襲を受け、南茅部町全域での主な被害は全焼全壊16戸、死者6名とされています。 制空権をほぼ失っていた日本は、南茅部のような小規模町村に至るまで空襲を受け、各地で大きな被害を出しています。そして8月に入ると、6日に広島・9日に長崎に原子爆弾が投下され、さらに8月8日にソ連が日ソ中立条約を破棄し、翌9日からソ連軍が満州、南樺太、千島列島に侵攻したことにより、日本はさらに大きな被害を受けました。 ここに至り、8月14日、日本はついにポツダム宣言受諾を決定し、8月15日の玉音放送で国民は日本の敗戦を知ることになるのです。 ![]() #
by dounan-museum
| 2025-09-23 09:29
| コラムリレー
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松前町教育委員会事務局の佐藤です。 今年は戦後80年、そして福山城(通称:松前城)が昭和10年(1935)に国指定史跡となって90年の節目。そこでこのたびは戦時下の福山城にまつわるストーリーをご紹介します。 昭和28年11月8日、松前駅を終点とする国鉄松前線が開業しました。昭和62年に運営はJRに引き継がれ、翌63年1月31日に廃線となり、35年の歴史に幕を閉じましたが、この間、船舶に代わって松前地方の輸送の大動脈として生活と観光面に大きな役割を果たしたのです。 しかし松前線開業の陰では、福山城の価値を大きく減衰させる事件が起きていました。 発端は大正2年(1912)、上磯線を福山町(のちの松前町)延伸させることを目的とした期成会が発足し、鉄道大臣などへの陳情活動が行われたことに始まります。 昭和5年には木古内線が開通、昭和11年には知内まで延伸、昭和13年には碁盤坂(福島町千軒)までが開業したことで福山町までの延伸に期待が膨らんでいました。 ところが戦争の長期化による軍事予算の拡大、物資の不足なども影響して、松前方面への延伸工事はストップ、工事の無期延期が発表されたのです。 そこで福島・吉岡・大沢・福山・小島・大島の各町村長は、鉄道省への陳情を開始。戦時体制に呼応した「軍需産業の強化・食糧増産」の二点を強力に主張するようになりました。この陳情は国内での資源開発と増産の必要に迫られた当時の政府を大いに動かす結果となり、松前や上ノ国に豊富に埋蔵されているマンガン鉱の開発を目的として、松前方面への鉄道敷設工事が始まったのです。 昭和16年10月16日、及部川から松前駅までの工事を担当した岩井組により、松前公園西側で鍬入れ式が行われました。そしてこの工区には、昭和10年に国指定史跡となった福山城も含まれていました。 文部省では、国宝指定の福山城天守への振動などの影響を考慮し、史跡内へのトンネル整備することに強く反対。しかし鉄道省側は、経路を迂回させることは非常に難工事となって経費も増大、日数も多くかかるため、国策・国防上から急いで完成させる必要があるとして、軍部の声がかりを背景に史跡内を通過する経路に決定しました。 【史跡名勝天然記念物指定區域現状變更ニ關スル件】(複写) これは鉄道省が発出した史跡の現状変更についての文書です。 「史跡指定地が鉄道省事業による鉄道用地に該当するため、現状変更を承認してほしい」との内容ですが、その日付は昭和17年8月10日付け。 【松前線開通後の史跡】(昭和28年11月~昭和34年7月の撮影か) 昭和16年~17年当時、写真右手の陸橋を起点に深度約4m、延長82mを開削、さらにそこから写真左手にかけて延長168mのトンネル工事が行われました。 こうして、最も重要な本丸を東西に横切るかたちで史跡が破壊されてしまったのです。 【松前線トンネル跡とそれを封鎖する石垣】 現在、史跡松前氏城跡福山城跡の西側、堀廻りと呼ばれるエリアには、松前線トンネル跡が残されています。 戦後の生活と観光に大きな役割を果たした松前線ではありますが、一方では史跡の破壊を招いた戦時体制への迎合に対する戒めと見ることもできるでしょう。 #
by dounan-museum
| 2025-09-08 00:00
| コラムリレー
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北海道立函館美術館の耳塚です。
12月20日(土)から、当館常設展示室にて「道南の美術 戦時下の諸相」展を開催予定です。
本展では、第二次世界大戦(1939-1945)の期間に、道南ゆかりの作家たちが制作した絵画、写真、スケッチなどを紹介します。
今回は、この展覧会に出品予定のこちらの油彩画をご紹介します。
![]() 田辺三重松《北方の港(北千島)》1943年 函館市蔵(当館寄託)
田辺三重松(1897-1971)は、函館区大黒町(現・函館市弁天町)に生まれた、北海道の雄大な自然を鮮やかな色彩と大胆な形で描いた油彩画で知られる画家です。1957年に活動拠点を函館から東京に移しましたが、転居以降も北海道の風景を描き続けました。
若き日の田辺は、1920年代から赤光社展(函館の美術家団体展)や道展(全道規模の美術家団体展)に出品していました。1930年代は、全国規模の公募展である二科展で何度も入選。1938年には二科会の会友、1943年には道内在住画家として初の会員となり、戦時下でも画家として高い評価を受けていました。
1943年夏、田辺は北千島に従軍画家として赴きました。《北方の港(北千島)》は、この時の取材をもとに制作された作品です。
港に停泊する大小の船、穏やかな海や山々は、田辺が以前から描いていた主題です。本作でも、力強い筆致で個々の船の特徴や海の波の様子を的確に表現しています。
画面下部に大きく描かれた錨は、黒光りする金属の質感まで丁寧に表されています。そしてその背後の光景は、錨の質感が影響しているかのように、冷たく活気がありません。
軍服姿の4人の人物や、沖に浮かぶ軍艦らしき船の黒い影が、こののどかな海浜風景に不穏な空気を漂わせています。
この作品は、戦前の明るく生き生きとした港の風景画とも、戦後の鮮烈な色彩と大胆な構図で表現された海辺の風景画とも異なる印象を与えます。
本作は軍部が主導する戦時の特別展ではなく、一般公募展である新美術家協会展に出品されました。しかし、画面には戦争の気配が色濃く表されています。
1943年から美術制作資材の供給が統制され、年次の鑑査結果に基づき資材が美術家たちに分配されました。田辺は資材を優先して配給される「甲種」と評価されましたが、それでも画材の入手は容易ではなかったはずです。しかし、1928年から函館で毎年開催していた個展は休止せず、1943年や1944年にも開催しました。
1944年10月、一般公募展が禁止されたことにより、田辺が所属していた二科会は解散しました。
終戦後、田辺は二科会再建の運動には加わらず、1945年11月に二科会の元会員と共に行動美術協会を創立し、翌12月には北海道在住作家たちの団体である全道美術協会の創立にも参画しました。
【展覧会情報】 「道南の美術 戦時下の諸相」 会期:2025年12月20日(土)~2026年4月5日(日) 会場:北海道立函館美術館常設展示室 観覧料:一般260円、高大生150円 *中学生以下および65歳以上、身体障害者手帳や療育手帳、精神障害者保健福祉手帳をお持ちの方(ミライロID利用可)およびその介護者1名などは無料。 *高校生は毎週土曜日および学校の教育活動で利用する場合は無料。 #
by dounan-museum
| 2025-09-01 10:00
| コラムリレー
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