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松前町教育委員会の佐藤です。 今年度も道南の学芸員による週一投稿のコラムリレーが始まりました。 みなさまどうぞ最後までお付き合いください。 さて、通算226回目として私がご紹介するのは、「松前の俳諧文化」です。
【松前歌壇の黎明】 本州とは津軽海峡をへだてた松前の地にあって、江戸時代初期における芸術文化の担い手は松前藩主をはじめ、中央の情報にアクセスできる地位にあった人々であったと考えられます。 『福山秘府』(1780年刊行)によれば、天正十八年(1590)、蠣崎慶廣(のちの初代松前藩主)が上洛の折、当代随一とされる里村紹巴(さとむらじょうは)に師事して連歌(5・7・7の上の句と7・7の下の句を複数人で読みあう形式)の研鑽を深めていたことが読み取れます。また、慶長九年(1604)の京都伏見での連歌会では、紹巴の長子である玄仍(げんじょう)との連歌に同席しています。 一方、国許の松前でも上方文化の潮流が生まれつつありました。朝廷における公卿、女官たちの風紀紊乱事件に連座し、蝦夷地松前に流刑となった26歳の青年公卿・花山院忠長。彼は松前慶廣の庇護を受けることになりました。慶長十七年(1612)四月、松前での酒宴に際して忠長が詠んだのは次のニ首です。 都にて かたらば人の いつはりと いはん卯月の梅のさかりを いつはりと えやはいはまし卯月にも 梅のにほひをかぜのおくらば これに和した慶廣の歌は一首。 わきて今日 大宮人(おおみやひと)の ながむれば 梅の匂(にほひ)のなほふかきかな 資料的な制約はあるため藩主クラスを中心とした記述となることはやむを得ませんが、慶廣は当時にあって深い教養を持っていたことがうかがえます。
【文化人の渡海】 松前歌壇において、歌人(俳人)層に厚みが出るのは天明~寛政期(1781~1801)とされます。江戸時代初期は松前藩主とその周辺で行われていた歌壇が、藩士やその子弟、藩医、神職、商人たちにも広がりを見せました。そして文化人が渡海してくることで、松前領民との交流がうまれます。 紀行家である菅江真澄は天明8年(1788)、33歳のときに松前城下へやってきました。当時、松前に上陸するには沖口役所での厳重な審査を通る必要がありましたが、真澄は稼方・商人とも思われないということで津軽へ送り返される予定でした。しかし、真澄の身元引受人であった沢田利八が気を利かせ、懇意であった藩医・吉田一元に対して真澄の句を渡します。 思ひやれ たよりもなみの 捨て小舟 沖にたゆたふ心つくしを 一元は藩主である松前道廣にこの句を知らせて真澄の身の上を相談すると滞在が許可され、真澄の4年3カ月におよぶ松前滞在が実現しました。この間、真澄は道廣の継母・文子たちと親交を深めます。 菅江真澄に一足遅れて、幕府の巡見使一行に随行して松前に来たのが、地理学者の古川古松軒です。 菅江真澄の来遊よりも前、すでに松前では道廣の継母・松前文子をはじめ、下國季豊、氏家俊子、氏家直英、佐々木一貫といった歌人が存在しましたが、古川古松軒は彼らとの交流を深め、松前を去るにあたって送別の歌を交わしています。 稀にしも あひみつ潮の けふはまた 引くがかなしき和歌の浦浪 (蠣崎 某) 常盤なる 契りわするな松前の 磯のしら波立わかるとも (古松軒) おしむとも 甲斐も渚に 寄せうきし 和歌の浦浪立かえり行く (佐々木一貫) こうして松前歌壇の活動は一層活発となりました。
【俳諧連歌の流行】 五・七・五・七・七の和歌を滑稽にしたものを「俳諧連歌」といい、特に五・七・五を「発句」と呼び、松尾芭蕉により洗練されて「俳諧」として流行します。 享和・文化・文政という19世紀前半から幕末に至るまで、松前歌壇の活動は停滞期を迎えたとされます。それは、詩歌集の写本はあっても、私家本つまり自作の歌を所収したものが松前では見当たらないためとされます。その実態は、文化四年(1807)~文政四年(1821)のあいだ松前藩が奥州梁川に領地替えとなったことで、歌壇を担っていた武士や医者などの知識階級が松前を去ったことが要因のひとつと考えられます。 一方で、松前や箱館では町人たちによる俳諧が広がりを見せました。奥州白石の俳人・松窓乙二が箱館・松前へ来遊したことで俳諧団体「斧の柄社」がうまれ、それが幕末に至って「松風社」の設立につながるのです。 松窓乙二は文政二年(1819)に箱館・松前を去りました。松前斧の柄社は、青標(松前の豪商・伊達林右衛門)を中心に俳諧を続け、文政四年の松前藩復領を機に、藩主・松前章廣の後ろ盾を得て隆盛を極め、70~80名の同人を有していたとされます。
奥州白石の俳人 松窓乙二 【松風社の分立・発展】 松前の俳人たちが斧の柄社から分立する契機となったのは安政五・六年(1858・56)とされます。豪商・村山家から杉原家に養子に入った美濃可朗(よしあきら)=鶴庵旭(一旭)は、乙二に俳諧を学び、次いで松前生まれの一豊という俳人の門下に入りました。箱館斧の柄社の北涯の助言もあって松前俳人たちの団結を図り、みずから「蓮の本」と称して松風社を結成するに至り、松風社主宰となりました。 明治期の松風社は、鶴庵旭と池田亜喃の2名を中心に多くの俳人によって運営されていました。残念ながら明治元年・二年の箱館戦争により、それ以前の句集は焼失してしまったようですが、災禍による疲弊を経て、明治維新の機運の中で松前俳壇は活動を再開します。 明治二十一年(1888)、松風社一世の鶴庵旭が75歳で没し、当時60歳で松風社を主導する立場にあった亜喃が松風社を継ぎました。明治三十五年(1902)に亡くなるまで活躍した「彩雲坊亜喃」の声名は広く知れ渡っていたと伝わっています。 亜喃の没後、松風社三世には喜鶴庵可昇(豪商・岩田栄蔵)が就任しました。しかし明治末期に東京へ転出したことで、その跡を継承したのは在町の医師である老水(中山清葊)でした。 老水は早くから亜喃に師事し、大正を経て昭和25年(1950)に数え89歳で没しました。大正期、松風社は同人十数名を擁し、俳諧をしきりに行っていました。このころの句額には、国家主義の思想が反映された作品も見受けられます。
松風社二世 池田亜喃(74歳、最晩年に撮影された肖像写真) 【新たな潮流】 昭和初期、松前の青少年層の間に、松風社とは別の俳諧運動が生まれ、「高潮吟社」という組織に成長し、記念句額をつくるなど活発に活動していました。 第二次世界大戦の終結後、松風社四世・中山老水が昭和25年(1950)に死去、高潮吟社を主宰する伊藤栄川(伊藤栄三郎)は松前中学校長を退職したことで同32年(1957)に七飯町へ引っ越してしまいました。 ここに、松風社・高潮吟社の同人たちの間で合流を図ることになり、新名称を「松風吟社」として、松風社の流れを継いだ五世主宰として檳榔子(池田亜喃の孫である武田勇作)が就任しました。 昭和54年(1979)には再び「松風社」と名を改め、毎年さくらまつりには全国俳句大会を開催するなど、今なお活動を続けています。
【告知】 松前町郷土資料館では、令和6年度前期ミニ企画展として、「まつまえの俳諧文化―池田亜喃とその時代―」を開催中です。松前ゆかりの文人たちの作品や、松風社二世・池田亜喃のご子孫から寄贈を受けた武田家資料を中心に、江戸時代から昭和期に至るまでの俳諧文化の形成・発展過程をご覧ください。
詳細は下記HPから↓
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by dounan-museum
| 2024-06-24 18:47
| コラムリレー
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こんにちは、福島町教育委員会の鈴木です。 7月5日(金)福島町吉岡総合センターにて、歴史文化講演会「堀田仁助と渡島半島」を開催いたします。 堀田仁助は、伊能忠敬に先駆け蝦夷地を踏査し東日本の沿岸地図を作製した人物です。 幕府から蝦夷地航路の開拓を命じられた堀田仁助は、江戸から厚岸まで船で天体観測を行い緯度を計測し、復路は厚岸から松前まで海岸部を歩いて測量し、その成果を「従江都至東海蝦夷地針路之図」に残しました。 講師として、島根県地理学会会長の神英雄氏をお招きし、堀田仁助が残した道南の記録や、伊能図へも影響を与えた測量技術について、最新の研究成果を交えて貴重なお話をいただきます。 是非この機会にご参加ください。 日時:令和6年7月5日(金)17:00~18:00 会場:福島町吉岡総合センターコミュニテイーホール(福島町字吉岡204-1) 講師:島根県地理学会会長 神 英雄 氏 参加:無料 #
by dounan-museum
| 2024-06-20 11:11
| 福島町教育委員会
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by dounan-museum
| 2024-05-24 08:39
| 北斗市郷土資料館
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こんにちは。五稜郭タワーの木村です。 今週末の5月18日(土)・19日(金)には、第55回「箱館五稜郭祭」が開催されますが、今年のゴールデンウィークには、函館を舞台にしたアニメ映画の影響で五稜郭を訪れた観光客も増加しました。そして今年は、五稜郭が竣工して、郭内に箱館奉行所が開庁した元治元年(1864)から160年の一寸した節目の年を迎えております。 そこで此の度は、函館市中央図書館と五稜郭タワーの共催により、下記のとおり、五稜郭の石垣技術をテーマとする講演会を開催いたします。 この講演会では、五稜郭の史跡整備に携わっておられる、東北芸術工科大学の 北野博司先生をお招きし、五稜郭の石垣構築技術とその現状について紹介して頂きます。 また、講演会の終了後には、函館市教育委員会と箱館奉行所 指定管理者 名美興業株式会社のご協力により、五稜郭の「兵糧庫」内に保存されている「刃金板」を特別に公開して頂けます。 日 時 : 2024年 6月 8日(土) 14:00 ~ 15:30 (開場 13:30) 場 所 : 函館市中央図書館 (函館市 五稜郭町 26-1) 視聴覚ホール 講 師 : 東北芸術工科大学 文化財保存修復研究センター 教授・センター長 北野博司 氏 定 員 : 150名 (当日先着順。直接、会場にお越しください) 参加料 : 無料 郷土の貴重な文化財、特別史跡としての五稜郭について、改めて思いを馳せる機会としたく思います。 ご参加をお待ちしております。
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by dounan-museum
| 2024-05-16 16:00
| 五稜郭タワー
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ピリカ旧石器文化館から講演会のお知らせです。 現在、今金町教育委員会を中心に北海道遺産「今金・美利河の金山遺跡」を構成する遺跡のひとつ「美利河2砂金採掘跡」の整備に向けた調査を継続しています。 美利河の砂金採掘跡は江戸時代初期に稼働していたと考えられる遺跡で、芝金や芝下金と呼ばれていた段丘中に埋蔵されている砂金を掘り出した痕跡として無数の水路や石垣が遺されています。 この砂金採掘跡に関連して、『日本の金山遺跡や近年の調査技術を学ぶ』と題した金山遺跡についての一般講演会を開催いたします。 講師として九州大学名誉教授の井澤英二氏、九州大学総合研究博物館専門研究員の久間英樹氏をお招きし、日本各地にある金山や銀山遺跡との関係性や、最新の調査技術を駆使した鉱山遺跡の研究についての貴重なお話しをしていただきます。 今金町の砂金採掘跡は保存状態が良好であることに加え、北側に位置するカニカン岳の金山も含めた大規模な金山遺跡群として江戸時代の鉱山技術を考える上で非常に重要な遺跡です。 どなたでも入場いただけますので、ぜひご参加ください。 日 時:2024年5月25日(土) 16:00~17:30 会 場:今金町総合体育館あいきゅーぶ 研修室 参加費:無料 申 込:不要(会場に直接おこしください) テーマ:「日本の金山遺跡や近年の調査技術を学ぶ」 主 催:いまかね遺産保存活用実行委員会 後 援:今金町教育委員会、文化庁 #
by dounan-museum
| 2024-05-09 15:14
| ピリカ旧石器文化館
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