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秋風を感じるようになりましたが、 まだまだ、日差しは夏のようですね。 みなさん、こんにちは、七飯町歴史館です。 本日は、テーマ展「足もとから知る「かんきょう」展開催のお知らせです。 最近、夏が異常にあつかったり、 ヒグマが市街地まで活動の範囲をひろげたりと、 環境の変化を感じることはないでしょうか? 今回の展示は、わたしたのまわりをよく観察して たとえば、街なかでも海岸でも、森林でも、 なぜか、ゴミが目につくことはないでしょうか? このゴミには、土に還ることができない、素材が多いこと。 なので、実際にゴミを拾い、洗って展示し、 どんなゴミがあるかを、見ていただいたり、 大沼湖で採取した砂からみつかった、 マイクロプラスチックを観察してもらったり、 七飯町で撮影された、ヒグマの活動の様子をみてもらったりと 説明はすべてひらがなとなっておりますので、 もしかしたら、読みづらいかもしれません。 親子でも学べる内容となっておりますので、 一度足をはこんでいただければ、嬉しいです。 会期:2025年8月29日(金)〜10月30日(木) 時間:9:00〜17:00 場所:七飯町歴史館 企画展示室 休館日:毎週月曜日(ただし、9/15、10/13をのぞく)、9/16、10/14 観覧無料です。 #
by dounan-museum
| 2025-08-31 13:25
| 七飯町歴史館
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八雲町郷土資料館・木彫り熊資料館の大谷です。 当町には戦中・戦後の暮らし等についての聞き取りの記録があまりなかったため、この戦後80年に合わせてお話を伺い、記録を残しはじめました。その成果を「戦争のキヲク~八雲町の戦中・戦後のくらし~」展にて紹介しています(~9月28日まで)。 ここから皆さんのキヲクを紹介したいと思います。 ●戦中~戦後はカボチャをよく食べた みなさんが口をそろえて話してくださったのは、とにかくカボチャを食べたということ。カボチャをマサカリで割ってずっと食べていたから、手が黄色くなったと話してくれたおばあちゃんもいました。私はあまりピンとこなかったのですが、カボチャはとにかく保存がきいて、納屋に積み上げておけば全然腐らなかったとのこと。冬は解凍して食べたそうです。甘みがあって、同じくよく食べたジャガイモよりおいしかったとも。でも食べ飽きたとも。 また展示を見に来ていた60歳くらいの人と話をしていたら、「カボチャはその辺で放っといても実ったので、とにかくたくさんあった。私も昔はマサカリで割っていた。カボチャをお金出して買うようになったのがショックだった」と聞きました。 カボチャが救荒作物だとは知っていましたが、本当に大量にできて保存が効くものだったんだと実感しました。 ●八雲地域での空襲は焼夷弾でなく機銃掃射 私は空襲と聞くと思い浮かべるのはB29爆撃機から投下される焼夷弾なのですが、八雲地域にとってはそうではありませんでした。昭和20年7月14日の北海道空襲では町内の人的被害として ・黒岩沖で機銃掃射を受けた漁師2名が亡くなり、2名が軽傷 ・鷲ノ巣信号場で機銃掃射を受けた転轍手1名が負傷 の2件が知られています。 また八雲町内ではありませんが、森町濁川の鉄橋で機銃掃射を受けた機関士が八雲町出身者で、落部の愛山医院で手当後、自宅に近い八雲の西亦外科病院に入院したという記録もあります。 そして不思議なことに、八雲町内には陸軍飛行場(現在は航空自衛隊八雲分屯基地)がありましたが、ここは攻撃を受けなかったそうです。軍の飛行場なんて真っ先に攻撃されそうなものですが…。 ちなみに今は八雲町に合併した旧熊石町の方にもお話を伺いましたが、熊石では空襲はなく、防空壕は掘ったけど一度も使わなかったとのことでした。 ●戦後八雲でのアメリカ兵 戦後には駐屯しているアメリカ兵らが、よくチョコやガムを子どもたちにあげたエピソードが有名です。八雲にも基地があったことからアメリカ兵等が駐屯しており、子どもたちにチョコやガムをあげていたことがノンフィクション作家である保阪正康氏の『風来記 わが昭和史(1) 青春の巻』に記されています。そこには書かれていないキヲクをひとつご紹介。 今年が戦後80年ということで、1月1日の新聞に保阪氏のインタビュー記事が掲載されました(地方の新聞社も含め30社以上が使用してくださったとのこと)。保阪氏は終戦の日を八雲町内で迎え、小学校5年生までを過ごしました。昨年八雲を訪れ、自分が住んでいた曙町(八雲神社の西側の区画のことを指した地名で、現在はない)や、遊んだ八雲神社、通った八雲小学校等を巡られての記事です。私も昔の地図や写真の提供でお話しさせていただきましたが、保阪氏から「八雲小学校近くの踏切を15時20分にアメリカ兵が乗った列車が通った。その時にチョコやガムを投げるので、同級生は時間になると踏切へ拾いに行っていた。父から拾うなといわれていたので、おいしそうに食べる友達がうらやましかった。」というキヲクを聞きました。 そして保阪正康氏の講演会「昭和100年/戦後80年 今、歴史から何を学ぶか」が、9月7日(日)14時から開催されます。会場は八雲町内のはぴあ八雲です。ぜひご参加ください。詳細は下記からどうぞ。 八雲町郷土資料館・木彫り熊資料館 大谷 #
by dounan-museum
| 2025-08-21 20:40
| コラムリレー
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ピリカ旧石器文化館からピリカ遺跡まつりのお知らせです。 ・期日 2025年9月7日(日) ・会場 ピリカ旧石器文化館 今年の目玉は次の3つ。 1.石器づくりセミナー 旧石器時代の石器づくり講習会で指導役は寺崎康史さん。 11:00からと13:00からの2回開催します。各定員は10名まで。 2.石みがき体験 今金産大理石や日高産かんらん岩を磨いて光沢を出し、きれいな置物にしてみませんか。 3.ヤリ投げ大会 石器がついたヤリで的めがけて投げつける体験会です。参加賞、命中賞あり。 このほか、後志利別川の土砂から砂金を選別する砂金掘り体験コーナーもあります。 ちなみに会場で作ったものはすべて記念として持ち帰りできます。 また、この日に合わせて同会場では「ピリカマルシェ」として3台のキッチンカーや加味丘dinningさんのパスタ、今金産野菜の直売、木育ワークショップもあります! この機会にぜひピリカへお越しください!
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by dounan-museum
| 2025-08-20 17:54
| ピリカ旧石器文化館
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![]() かつて世界中を巻きこんだ大きな戦争があの年・あの月に終結して80年となります。 年ごとに記憶も薄れてゆく中、終戦の月となった8月に合わせ、「あのとき」を思い起こし、戦争というあやまちを起こさないこと、平和とはどういうものかをあらためて問い直す機会として、かの戦争の記録として今に遺る資料たち(軍装品・生活資料・戦時代用品・教科書・雑誌・玩具・防空用品など)にパネルよよる解説を添え、当時を振り返ります。
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by dounan-museum
| 2025-08-19 07:29
| 北斗市郷土資料館
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奥尻町教育委員会事務局の稲垣です。
今年は戦後80年という節目の年です。
今回は「戦後」について、2025年8月を現在地として少し考えてみます。 この「戦後」という言葉は、どのように解釈され、またイメージされているでしょうか。 簡単に考えると、戦後とは第二次世界大戦終結後の事、となります。 日本国でいうと、アジア・太平洋戦争(戦争の呼称や期間については、様々な論調がありますが、ここでは本題としません)終結後の事、になります。 日中戦争含めた長い戦争期間が、大日本帝国が英米中ソなどの連合国に対して無条件降伏することで終わったのです。
これを「終戦」と呼ぶか、「敗戦」と呼ぶか、個々人によって様々です。 前線で戦った兵士とすれば、敗退であり、それを支えた銃後の国民であれば、そのことが終わりとなった訳です。 帝国日本のこの近代戦争は国が国民一体となってぶつかった総力戦でしたから、そういう意味では国民全体が敗者となったことになります。「敗戦」と呼ぶことにこだわる人がいる理由の一つでしょう。 ただ、はっきりしているのは、戦いが終わり、帝国日本は負けたのです。
そこから「戦後」はスタートしました。 同時に「戦前」という概念も生まれました。 「戦前」とは、戦争開始前、または1945年8月15日もしくは9月2日以前 「戦中」とは戦争期間中 「戦後」とは1945年8月15日もしくは9月2日以降 という区分を設けることができます。
歴史的経過としては、帝国日本は1945年8月14日に無条件降伏となるポツダム宣言を受諾、翌15日正午に国民一般に広く表明しました。現人神とされた昭和天皇の肉声がラジオから流れるという前代未聞の出来事でもあり、「玉音放送」と呼ばれています。 ただし、国際法的に見て、正式な降伏調印は9月2日の米国軍艦ミズーリ上でのことです。しかし、ただちに停戦となったわけではなく、ソ連による侵攻があった樺太(サハリン)では8月22日に「知取協定」が結ばれて停戦しましたが、最終的には25日に陸軍第88師団が武装解除するまで戦闘が続きました。北方四島がソ連に占領されたのは、その直後のことです。うち、国後島を追われた島民は、翌1946年に奥尻島へ集団入植することになります。 他地域においては、終戦後も独断専行して外国に留まった兵士、中国の内戦に巻き込まれて部隊ごと残留させられた兵士、シベリアに抑留された兵士。軍隊が瓦解した後、満州の開拓地に取り残され、悲劇的運命をたどった民間人、そして、野ざらしにされたままの遺骨。否応なしに、それぞれの「戦後」が始まったのです。これらの人々にとっては決して戦争は終わっていなかったとも言えます。 敗戦後の国内の生活も語り尽くせない悲惨な部分がたくさんありました。海外に残されたままの遺骨帰還問題、戦災の個人補償の問題など、戦争の後始末は今日まで尾を引いています。
もちろん、日清戦争と日露戦争の前後でも戦前、戦中、戦後の状況は発生しました。 けれど、この時代においては、現在のように意識的に区分され、呼称されたとは思われません。 やはり、「先の大戦」や「あの戦争」と呼ばれることもあるアジア・太平洋戦争においてのみこれらの区分が用いられ、概念的に現在の国民一般に通用しているからだと思われます。それだけ、国民にとって敗戦になって終わった戦争は未曾有の出来事であり、体験であったということです。何より、80年間、日本国が係わる戦争が起きなかったことに他なりません。
戦後とは、新たな戦前である、と表現した人がいました。言い得て妙です。ひとたび戦火を交えれば、「戦後」はたちどころに消えて、今戦っている戦争の「戦前」となってしまう訳です。紆余曲折を経ながらも80年間続いてきた今現在の「戦後」が「戦前」にならないよう、国民は不断の努力でこれを堅持し、後世に伝えていく努めがあると言えましょう。
参考文献:麻田雅文2024『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』中公新書2798 #
by dounan-museum
| 2025-08-11 08:30
| コラムリレー
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