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函館市文学館の小林です。 当館 1階では、髙橋掬太郎、片平庸人、齋藤玄、今東光、今日出海、水谷準、久生十蘭、亀井勝一郎、井上光晴、長谷川海太郞、長谷川四郎、森本貞子、辻仁成、宇江佐真理、佐藤泰志、梁川剛一など函館ゆかりの作家の作品、原稿、愛用品などを常設展示しています。今回は常設展示作家の中から、文学や絵画の分野で国境を越え活躍した、長谷川四兄弟―海太郎・潾ニ郎(りんじろう)・濬(しゅん)・四郎についてご紹介します。 明治33年(1900年)、佐渡で生まれた長男の長谷川海太郎は、2歳の時、ジャーナリストで後に函館新聞社長兼主筆を務めた父・長谷川淑夫、母・由紀と一緒に函館に移住しました。函館は安政6年(1859年)にわが国最初の国際貿易港として、海外へ門戸を開き、生活・芸術・宗教にいち早く西欧文化を取り入れてきました。海太郎と函館で生まれた弟たちは、古い習慣にとらわれず独自の文化を育んできた函館で、幼少時代や多感な時期を過ごしました。また、英法を学び、新潟では英語教師をしていた父淑夫の影響も大きく、彼らの目は海外へと向いていきます。 海太郎は、二十歳でアメリカへ渡って様々な職に就きながら、全米各地を放浪しました。帰国後は、3つのペンネームを使い分けて文壇のモンスターと呼ばれて超流行作家となりました。「めりけんじゃっぷもの」といわれる、アメリカでの体験を基にした作品では「谷譲次」名義を用い『踊る地平線』などの著作があります。「牧逸馬」の筆名では、欧米の犯罪記録をまとめ翻訳した「浴槽の花嫁」などの『世界怪奇実話』シリーズを発表しました。「林不忘」のペンネームでは、時代捕物帖を書き、中でも伝説的な剣劇小説『丹下左膳』は新聞で連載、映画化されるなど丹下左膳の人気が高まりました。 ![]() 長谷川海太郎 二男の潾ニ郎は、明治37年(1904年)生まれで、今年生誕120年となります。函館中学(現・函館中部高等学校)卒業後、画家を目指して上京し川端画学校に進みます。しかし数か月で学校を辞め、以後は独学で油彩画を学ぶようになりました。また、地味井平造(じみいへいぞう)のペンネームで雑誌『探偵趣味』や、『新青年』に小説を発表しました。その幻想的な小説は、江戸川乱歩にも高く評価されました。また、27歳になると潾ニ郎はフランスへ遊学します。パリの下町でアパートの1室をアトリエにし、独学で制作を続けました。帰国後はどこの美術団体にも属せずに独自のペースと画風を貫き通しました。 ![]() 長谷川潾二郎 三男の濬は、明治39年(1906年)生まれで、兄たちと同じく函館中学へと進みます。卒業後、両親の反対を押し切って漁船に乗り込み、カムチャッカ半島で季節労働に従事しました。その後船を降り大阪外国語学校露語科に入学、卒業後は、満州にわたり満州国外交部や満州映画協会に勤めました。満州文学の研究、翻訳、映画制作に携わり、中でもベストセラーになった、バイコフの『偉大なる王』の翻訳で、その名を知られるようになりました。また、詩やエッセイも発表しました。 ![]() 長谷川濬 四男の四郎は、明治42年(1909年)生まれで、立教大学から法政大学に進み、卒業後は兄の濬と同じく満州に渡り、南満州鉄道株式会社などで働きました。ロシア語・ドイツ語・フランス語などを駆使し、絵本から文学作品まで翻訳を手掛けました。また作家としても、シベリア抑留体験を基にした『シベリア物語』などの著作があります。また『鶴』は芥川賞候補にもなりました。詩人・劇作家でもあり、また自身の作品の挿絵や表紙を担当するなど様々なジャンルで活躍をした人物です。 ![]() 長谷川四郞 函館市文学館では11月10日(日)まで企画展「長谷川四兄弟~函館育ちの芸術家たち~」を開催中です。函館元町に育ち、それぞれにスケールの大きな人生を歩んだ四兄弟のめざましい業績をぜひご覧ください。 参考文献/広報誌ステップアップ「函館ゆかりの人物伝」(公益財団法人 函館市文化・スポーツ振興財団、1996~2016年) 写真 /函館市文学館所蔵写真より #
by dounan-museum
| 2024-10-01 17:04
| コラムリレー
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市立函館博物館 内田です。 今回は,9月7日(土)に開催した,「旧函館博物館一号」の内部公開についてご紹介します。 市立函館博物館本館の斜め上にあります「旧函館博物館一号」。明治12年5月25日に「開拓使函館仮博物場」として開場しました。 現存する日本最古の博物館建築物と言われています。 函館公園内には,「旧函館博物館一号」のほか,「旧函館博物館二号」(明治17年開場)も現存しており,二つとも北海道の有形文化財に指定されています。 ![]() 当館では開場記念日にあわせた5月25日に近い土曜日と,9月の函館公園ファミリーフェスタに,「旧函館博物館一号」の内部公開を行っています。今年度は5月に220名,9月に407名にご来場いただきました。 公開に合わせ,毎回収蔵資料をすこしだけ展示しています。今回は「水産陳列場」に関する展示を行いました。 「水産陳列場」は明治24年7月,函館公園内の3つ目の博物場として開場しました。北海道の主要な産業である水産業の進歩を促すことを目的に,水産関連の資料を展示していたようです。現在も当館に残っている資料のホッケ籠や船の模型,貝殻でつくられた工芸品や,缶詰や数の子の商品見本を展示しました。資料解説などは,博物館実習で来ている大学生にお願いをしました。初めてのお客様対応に緊張しながらも,博物館や函館公園の歴史をわかりやすく解説してくれました。 ![]() ![]() ![]() 明治15年につくられた錦絵「函館公園全図」には「旧函館博物館一号」は「博物場」として描かれています。 公園全図の冒頭には,箱館奉行であった杉浦誠(号 梅潭)の漢詩が掲載されています。函館八景といって,函館の名勝のひとつとして雨の夜の函館公園を挙げています。これから函館公園は紅葉で色づき始めます。秋の夜長に函館公園のお散歩はいかがでしょうか。 (雨の日は太鼓橋が滑りますのでご注意ください!) #
by dounan-museum
| 2024-09-21 09:14
| コラムリレー
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平成30年から発掘調査を開始した室町時代の15世紀中頃に機能した山城の花沢館跡や洲崎館跡では、令和2・3年に懸仏が見つかり、当時の人たちの山城における活動の新たな一面が明らかになりました。 今回は山城における信仰について、ご紹介したいと思います。 ![]() 花沢館跡からみつかった北海道初出となる懸仏は、令和2年に頂上部の主郭から上下逆さまの状態で出土しました。懸仏は本来の仏が衆生救済のため、仮に神の姿でこの世に現れるという神仏習合ひとつである本地垂迹説を体現するものです。大きさは高さ10.1㎝、幅5.3㎝、厚さ2.5㎝、重量210gの青銅製の鋳造品です。六本の手で救う如意輪観音ですが、別造りの手が三本欠損しています。 現在、この懸仏は頬杖をついたゆるい表情や「六本の手でみんなを救う」という理由で地域の人たちから「六救さん」と愛称がつけられ、キーホルダーや絵本が作られる他、六救さんづくり体験という鋳造体験なども実施され、地域住民と行政が連携した活用の取組みが行われています。 一方、洲崎館跡の懸仏は毘沙門天で砂館神社西の隣接する場所から出土しています。大きさは、高さ8.2㎝、幅4.0㎝、重量1.0gで、板厚が0.1㎝です。花沢館跡の懸仏と比較して非常に薄造りで、鋳造でなく銅板打ち出しで作られています。摩滅が激しいものの、須弥山をイメージした岩座に立ち、甲冑を表す刻み模様が施され、左手の持物(じもつ)は欠損している。銅板に留めていたものが外れ、毘沙門天像だけが出土したものです。寛正3年(1462)に洲崎館跡で創建された毘沙門堂の存在を裏付ける遺物として、大変意義深いものです。 ![]() 山城はどちらかと言えば、防御的な活動をイメージしがちでしたが、懸仏の発見により信仰の場としても利用されていたことを想像できます。また、北海道の中世においても神仏習合の教えがある程度普及していたことがわかり、当時の神仏に対する篤い信仰心を伺い知ることができます。 #
by dounan-museum
| 2024-09-12 00:38
| コラムリレー
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今回は、旧石器文化館でも定期的に開催している石器づくりに関する話題です。 石の割り方 石器の材料となる石には、力を加えた場所から円錐形に決まった角度で割れていくという性質(割れ円錐の原理)があります。そのため、木を削るように自由に形を整えていくことはできません。 力を加える場所や角度、石を叩くハンマーの重さや材質を慎重に調整し、石の割れ方をコントロールしながら石器を作り上げていくのです。また、力の加え方にも種類があり、直接石を叩く直接打撃、鹿角などをタガネのように石に当てその上から叩く間接打撃、鹿角の先端を当て圧力で押し剥がしていく押圧剥離(おうあつはくり)などがあります。 押圧剥離 さて、前置きが長くなりましたが、今回はそんな石の割り方の中から押圧剥離に関するお話です。 押圧剥離は他の方法と比較すると狭い範囲しか剥がすことはできませんが、代わりに薄く剥離することができるため、細かな調整や細石刃など細長く薄い石器を生産するために使われていました。 この方法で製作される代表的な石器に縄文時代の石鏃(せきぞく)がありますが、こちらは石器全体をほぼ押圧剥離だけで仕上げていきます。叩くと割れてしまうような小さく薄い形状でも、押圧剥離であれば破損することなく加工できるため、この技術があったからこそ人類は石鏃という道具を生み出すことができたと言えます。 押圧剥離の再現実験で製作した石鏃 押圧剥離の実際 押圧剥離で使用するものは主に4つ、①素材②割れた破片から身を守るための皮③押し当てる鹿角④縁辺を調整するための丸石です。 押圧剥離の基本セット この中でも一番重要なものが、④の丸石になります。石には決まった角度で割れる法則がありますが、言い換えれば、力を加えた角度によって割れ方が変わってくるということでもあります。石器を石でこすり縁辺の角度を変え、力を加えたときに一番都合よく割れてくれる形状に調整しなければなりません。必要な角度が用意できれば、次はいよいよ押圧剥離に入っていきます。 押圧剥離の1例(1) 上の写真は、当館学芸員宮本の押圧剥離の様子です。膝の上に石器をやや立てて置き、押し当てた鹿角に体重を乗せながら剥がしていきます。 押圧剥離の1例(2) 皮の下には更に石を 一方、こちらは私のスタイルです。石器は手のひらに置き、指先と皮の下に仕込んだ平たい石で挟んでホールドしています。膝の上と比べて石器の角度を変えやすく、上半身の姿勢が安定するためこのスタイルを採用していますが、代償として指先にかなりの負担がかかります。皮の下に仕込んだ石は鹿角が手のひらに当たるのをガードするほか、石器を少し浮かせることで鹿角を当てやすくするために使っています。 石器づくり、それぞれのスタイル 人によって腕の位置や鹿角の当て方、道具の形状に至るまでそれぞれ異なり、同じ石器を同じ割り方で作る場合でも、実際は様々なスタイルが考案されています。石が割れること自体は物理現象であり、どんな力を加えたかを検証する方法が確立されていますが、石器をどう持ったか、どんな姿勢で作っていたかまではわかりません。そのため、様々な方法で再現した石器と実際の石器とを見比べ、どんな方法だと上手く再現できるかの模索がおこなわれています。また、金属製の軸先を使用した現代的な押圧剥離を考案する人もいて、学術研究にとどまらない趣味としての石器づくりも盛んです。 石器づくりは非常に奥が深く、自分ならこの石器をどう作るだろうか?と考えることで石器時代の人間と同じ目線で石を眺めることができます。みなさんもぜひ石器づくりに挑戦し、石器時代の目線を獲得してみてください。
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by dounan-museum
| 2024-09-04 10:05
| コラムリレー
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市立函館博物館の大矢です。 現在市立函館博物館では,令和6年度企画展「北東アジアのシルクロード-北方交易と蝦夷錦-」を開催しています。 ![]() 「シルクロード」といわれると,かつてヨーロッパと中国をつないだ絹製品の交易路が思い浮かぶかと思いますが,実は中国からサハリン・北海道を経て本州まで及んだ「北東アジアのシルクロード」も存在していたことをご存じでしょうか。中国の元朝・明朝・清朝は,ウリチやナーナイなど沿海州の先住民族を治めて朝貢交易をおこない,貴重なクロテンの毛皮等を納めさせる代わりに絹製の官服(役人の服)等を下賜しました。これが先住民族同士の交易を経て北海道にもたらされ,「蝦夷錦」として和人によって珍重されたのです。 蝦夷錦の中継役となったウリチやナーナイは,当時近隣の先住民族から「シャンタ」や「サンタ」などと呼ばれていたことから,やがてその呼び名は「サンタン(山丹)」に転訛し,この先住民族同士の交易活動は「サンタン交易」と呼ばれました。 ![]() 市立函館博物館所蔵の蝦夷錦 1879年に函館の豪商杉浦嘉七が寄贈 19世紀初頭にアムール川河口付近の地デレンの「満州仮府」を訪れた間宮林蔵は,そこで行われていた朝貢交易の様子について『東韃地方紀行』に書き残しています。そこには毛皮を献じる先住民族や,下賜する反物を脇にしてそれを検分する清朝の役人の姿,そしてその周囲で活発に交易をおこなっている多数の先住民族の姿を見て取ることができます。 ![]() ![]() 間宮林蔵『東韃地方紀行』(函館市中央図書館所蔵)より こうしてウリチやナーナイなどの先住民族の手に渡った絹製品は,サハリンの先住民族であるニヴフやウイルタ,そして同じくサハリンや北海道のアイヌへと渡っていき,「蝦夷錦」として和人の手に渡っていったのです。和人の手に渡った蝦夷錦はもとの服としての形態だけでなく,その素材や柄を活かして打敷や袈裟などの仏具や,袱紗や刀袋などの調度品にも仕立て直されるなど,さまざまな形態で現代まで伝わっています。 ![]() 打敷に仕立て直された蝦夷錦(市立函館博物館所蔵) 裏面に「安政二卯年七月二九日」(1855年)の墨書がある 現在企画展では函館や松前などの道南地域に残された蝦夷錦を一堂に展示しているほか,サンタン交易の実態や蝦夷錦が和人に与えたイメージなどについて書かれた文書資料や絵画なども展示し,北東アジアのシルクロードの全体像が伝わるように展開しています。この機会にぜひ函館博物館に足を運んでいただき,貴重な文化財の数々をご覧いただきたいと思っています。 なお8月26日~28日は休館して,道南に残された蝦夷錦を青森県下北地方に残された蝦夷錦に展示替えし,8月29日からその公開を開始します。9月7日には学芸員による展示解説と,ノンフィクション作家相原秀起氏によるスペシャルトークを開催しますので,こちらもぜひご参加ください。
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by dounan-museum
| 2024-08-30 13:29
| コラムリレー
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